《5》

□未来へ
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一人ぼっちの朝だった





体内時計に引き起こされた朝はしかし潜行中のため仄暗い。そして寝ぼけたまま周りを見渡すと息をするのはこの世で私一人だけかの様な静寂に沈む船長室。

「……」

あれは夢…だったのだろうか。トラファルガー・ローの温もりは欠片もなく、残る身体の疲れだけが無理矢理に昨日を現実とさせた。

裸のまま起き上がり風呂場に向かう。蛇口を捻ってからへたる様に床に座り込んで暫くシャワーの水音に耳を傾けると不思議な事にその音は同じタイルを叩いていながら時たま旋律を変えてきた。水圧のせいか…それとも私をからかっているのだろうか。

そのまま俯いて後頭部にシャワーを流し浴びれば温水は当たり前に鼻先に集まりボタボタと大きく落ちて砕けた。排水口に流れ込むこの液体の中に自分の涙は一体何粒混ざっているのかなんて…数えようとしたが気が遠くなりそうでやめた。

「ロー…」

私を抱く時いつも、彼は愛してると必ず囁いてくれていたのに…それがなかった昨日の行為を振り返るとやはり私は虚しい別れを刻まれていたのだと改めて気付かされた。

髪も身体も洗い流し風呂場を出てまた同じ部屋着を着た。髪を乾かす気力はなくてそのままガチャリと扉を開けると…

「はよ。」

虚を衝かれギクリと顔を上げる。見ると腕を組んだシャチがソファの背に腰を預けてこちらを見ていた。今日も可愛いちょんまげだ。だけど彼は濡れた髪の私をジッと見据えるだけでそれ以上言葉を発してこない。

「シャ、チ…」

沈黙に、後ろめたさが色を増す。

「あぁ…ハハ、もう仕事の時間だよね。ゴメンゴメン、一回部屋戻って着替えてくるから先行ってて…」

トラファルガー・ローに抱かれた事が見え見えだろうに…そんな動揺を隠そうと私はヘラヘラと軽い調子で彼の前を通り過ぎようとした。

「名無しさん…」

が、ガシリと手首を掴まれた。睨む様に振り返ればシャチは変わらず口を引き結んだままだ。

「離してよ…」

「……」

「私、仕事…」

「仕事はもういい。」

「は…?」

「お前は今日から客人扱いだ。次の島まで俺とベポが交代で面倒見るから…」

「……」

私は昨日、下船までちゃんと仕事をするとトラファルガー・ローに約束をした。なのに、それを知ってか知らずか紡がれた言葉。パチンと何かが弾けた。

「客人…て、何?私はもうクルーじゃないって事…?」

「……」

「昨日の今日で…そんな、手のひら返すみたいなっ…!」

彼の手を引き剥がそうと突如暴れ出した私をしかしシャチは片手だけで簡単に制する。悔しいが男と女では単純な力の差は歴然だ。離せと叫んでその胸を叩いてもびくともしない。それどころか

「これは船長命令なんだ…」

「…っ!」

突然、掴まれている手首を後ろに捻られ私は面白いほど鮮やかに膝を突いた。ミシミシと捻じり上げられる腕の痛みに顔が歪む。それでもまだ抵抗しようともがく私を彼は更に膝を折らせて大きな手で頭を床に押し付け完全に動きを封じてきた。

何でこんな事されなきゃいけないの…

「酷いよ…?シャチ…」

「頼むから…」

「訳、分かんない…」

「おとなしくしててくれ…」

もう…心が折れそうだ

「こんな事、するくらいなら…途中で捨てるくらいなら…最初から拾わなければ良かったでしょ…!私あのまま海軍の犬になってたほうがまだ…幸せだった!こんな思いするくらいならっ…」

「……」

「あんた達になんかっ…会わなきゃっ…良かったんだっ…!」

とうとう真意が牙を剥いた。言ってはいけない言葉を私は吐いたのだ。でもどうする事も出来なかった…だってこの船での日々と出来事は結果これからただの虚空と化すのだから。

「……」

「……」

シャチは私を押さえ付けたまま動かなかった。私も床に頬を擦り付けギリギリと歯を鳴らすだけ。どれくらいそうしていたのか…長い様で実際は短い時間であったろう。暫くして彼がふと手首を離し私を解放したその途端、指の先まで血液が行き渡りジンジンと脈拍が脳内に響き渡った。

「会わなきゃ…良かった、か。」

蹲る私の頭上に落ちてくるシャチの声は微かに揺らいでる。

「そう…だよな、もっともな話だ…」

「……」

「けどよ…、お前にどう思われようと…それでも俺達は、お前が生きててくれればそれでいんだ…」

震える私の背中に彼は手を伸ばし掛けた。がしかし触れる事を躊躇しギュッと拳を握ると込み上げる感情を抑えつつ事務的な言葉を紡ぐ。

「下船までは此処を使え。船内は自由に動いていいが時間は厳守。それと…」

「……」

「もし暴れたり何かあった時は…俺もベポも薬を打っていいと許可が出てる。だから…」

「もういいよ…」

「…あ?」

「分かったから…もう、いい。」

床に滲んだ声色は自分でも驚くほど冷め切っていた。




















トラファルガー・ローとペンギンさんは第二通信室にいた。取り急ぎ連絡を取りたい場所がある。しかし深度を保った潜行中は電伝虫の念波が外界に繋がりにくい。予定を繰り上げ浮上するか…考慮の末結局、予定通りといく事にした。

カップにコーヒーを注いだペンギンさんは通信台に肘を突き組んだ手の甲に顎を乗せているトラファルガー・ローの背中をジッと見据える。そして船長も飲みますか…と聞けば、いや…とだけ答えた彼を少しばかり哀れんだ。…この人もやはり血は赤い。

「昨日は…名無しさんを抱いたんですか?」

「……」

「抱いて欲しいと…泣き付かれましたか?」

敢えての不躾な問いにトラファルガー・ローはピクリともしない。が、

「フフ、あいつがそんな事するなんて…余程の覚悟がいっただろうに。」

「……」

「で…、どうでしたか?最後のあいつの味は…甘い、ほろ苦い、」

ガシャン…!

トラファルガー・ローは立ち上がり手元にあった懐中時計を床に叩き突けた。聞き捨てならなかった…ただの煽りと分かっていても。剣呑な目がペンギンさんを
捉える。

「あいつの話をするんじゃねぇ…」

「そんな目で見ないで下さいよ。俺はあんたを尊敬してるんだ…クルーとして、男として。」

「……」

「これでもう、名無しさんは生きるしかなくなった…無論あんたも。そうでしょ…?」

トラファルガー・ローは眉根を寄せた。

「互いに死ぬ事を許さない為にあんた、あいつの中に未来を残した…違いますか?」

「てめぇ…」

何度も何度も突き上げた名無しさんの中に、俺は…

「何、言ってやがる…」

思わず狼狽えた。俺よりも無情で冷酷なこいつはいつも全てを見透かしやがる。まったく…ガキの頃からの付き合いとは時に尊く時に、うざったい。

ほくそ笑む様に口端を引き上げたままのペンギンさんからは遠慮会釈ない言葉がまだ続く。

「7歳で父親を殺し家を捨てたあんたはいつも重い十字架を背負って生きていた。長い物に巻かれて自暴に浸かる時期もあった。俺達と海に出てからも、あんたはいつも悲しい目をして…。過去をおざなりに出来ずピーロットを追う日々は実に空回り。本当は誰よりも弱く誰よりも脆い自分を他の誰かに知って欲しくて息を詰まらせていたんでしょう。」

「……」

「だがこの前ユメリに会った時、あんたがわざわざ名無しさんを連れ立ったのを見て思ったんですよ。Wあぁ…この人はやっと呪縛から解放されるのか…Wと。」

痛い傷を女に晒す…それが男にとってどれほど覚悟のいる事か。しかし傷とは隠すより敢えて晒してしまった方がすぐに乾くのが自然の摂理。跡が残ろうがそれはどうでもいい。剥がれた瘡蓋を捨ててしまえば、そこには必ず再生された自分がいるのだから。

「あいつに晒せば負の自分は浄化される…過去と決別し、前だけを見据える事が出来る。そう思わせてくれる不思議な女ですね…スリーク・名無しさんは。」

ペンギンさんはカップをテーブルに置くと床に砕けた懐中時計の欠片を一つ一つ拾い始めた。この懐中時計はトラファルガー・ローが父親を殺した時、換金目当てに血だらけのポケットから抜き取った代物。だが結局、金にする事はなかった…それもペンギンさんは知っている。

「捨てるべき物…でも、手放したくない物…」

まるで揶揄する様に言ったペンギンさんは原型を留めない銀の欠片達をガチャリと大事にテーブルに置いた。

「まぁ俺は…あいつを新世界に連れて行かないのであれば、これ以上何も言う事はありません。全力でこの船を前に進めるのみです。」

「……」

「それと、今まであんたらの恋路を邪魔した事…許してくれますか?」

何とも情けなく顔を歪めて笑った彼をトラファルガー・ローは苦った。こいつも本気で名無しさんを求めていた…心の穴を埋めて欲しくて。シャチも。

だから尚更…

「ペンギン」

「はい。」

「件の泥水は全て俺が飲む」

「……」

「名無しさんを捨てたら次はシャボンディ諸島だ…もう日和見は効かねぇ…取るべき椅子を取りに行くぞ」

「フフ…、はい。」

























…壊れても、砕けても

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