《5》
□菫色の鏡
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2日間の潜水で例の高気圧から解放されたハートの船は浮上してから更に5日が経過していた。
その間、私は殆ど船長室から出ていなかった。部屋にいてもやる事はないが外に出たところでやはりやる事などない。そもそも、もう存在価値すらないのだから何処にいたって同じであろう。
ペンギンさんは一度様子を見に来たがトラファルガー・ローには会っていない。聞けば彼は食堂にも操舵室にも顔を出していないらしいがそれはそれとただ流す。
毎日交代でやって来るシャチやベポともろくに口を利いていなかった。いつも何かを言いかけてはそれを飲み込むシャチ、オロオロと黒目を潤ませながら肩を落とすベポ。そんな彼らと膝を詰めて一体どんな話しをすればいいのか…気を遣う事さえ面倒でそんな現状ももっぱらどうでもいい物としていた。
「じゃあ…昼飯、持ってくるね…!」
チラリと時計を見遣るとちょうど昼の12時。トラファルガー・ローの机で本を読む私にソファから声を掛けたベポが立ち上がり、居心地の悪い船長室を出て行った。
「ふぅぅぅ…」
一人になりやっと吐き出す溜息は堪らなく極上でそれが唯一の楽しみである。こんな生活が後一週間も続くのかと思うと尚更にコクが増す。
早く船を降りてしまいたいだとか、今よりもっと楽になりたいだとか…。先の事なんか何も考えていないくせに、でも息詰まる長い一日よりはまだマシだろうだなんて。いつからか思考回路は完全にそっちの方向へシフトしていた。
不思議なもので投げ出してしまえば案外平気なもの。そう、失くすのではなく得る前に戻るだけだと割り切れば痛くも痒くもなかった。涙はあの日が最後で、それ以来私は一度も泣いていないし暴れたりもしていない。わざわざ騒ぎ立てたくもなかった。飛ぶ鳥後を濁さずだ。
ガチャ…
「お待たせ!名無しさん、食べよ!」
「うん。」
ベポが二つのトレイを手に戻ってきた。そのままソファに座りテーブルに食事を置く。私も開いていたページにしおりを挟んでから彼の正面に座った。
「「いただきまーす。」」
それにしても腹の虫は相も変わらず図太い。私は一日三食を毎回ペロリと完食する。今日はクリームシチューとパン、サラダ、そしてリンゴだった。ベポも食べ終わり二人で手を合わせてご馳走様を唱えると、いつもならその後ベポがまたトレイを食堂に戻しに行くのだがしかし、今日は違った。
「あのさ?甲板で日向ぼっこしない?外、気持ちいよ!」
そう言われふと窓を見遣れば四角い枠の向こうに見える空は青く澄み渡っていた。が、私の心を映したら一体何色の鏡になるのだろうか。暫し逡巡した私はしかし差し出されたベポの肉球を握り、一週間ぶりに甲板の床を踏んだ。
「ね?いい天気でしょ?」
ぶわりと吹き抜ける風にTシャツの裾がヒラヒラ揺れる。あの熱さに慣れていたせいか少し肌寒いくらいだ。
「……」
濁りのない空気をゆっくりと鼻から丹田に吸い落とせば凝り固まっていた心がじんわり解れた。逸る気持ちを抑え私は一人床を睨みながらいつもの手摺まで歩を進める。そして恐る恐る前を見据えるとそこに広がるは太陽に溶ける青海原。その紺碧に宝石箱をひっくり返したかの様な目が眩む程の輝きは、キラキラの粒一つ一つが無垢な子供の笑顔にも見えた。
「何の為に…」
美しいのか…
「何の為でも、ない…」
だから美しい
遥か昔から存在するこの偉大なる海。そこから生まれた私達はいつかまたその白波に還る。どんな人間のどんな罪も最期は一つの泡(あぶく)となる。まるで哲学者の様なそんな感傷に浸っていたら
ポロリ…
何故だろうか…泣けてきた。
「名無しさん…?!ど、どうしたの?!」
後ろで見守っていたペポが慌てて駆け寄ってきたが、私は最初何の事だかよく分からなくて。でもベポの大きな手が頬を優しく撫でてきたのでそれで初めて自分が泣いているんだと自覚した。
「名無しさんっ…泣かないで…!」
「ベポ…違う、これはね…」
「うっ…うわぁーん!オレ、名無しさんが大好きなんだよ!オレだって本当は離れたくないんだ!でも…!だけど…!ぐぅっ…!わぁぁぁーん!」
ベポの涙のダムがぶわりと音を立てて崩れた。次から次へとその黒目から溢れ出る悲しみの洪水は彼の白い毛には滲まずに床を叩いて小さな湖になる。
「ベポ…ごめん。」
「ふんぐぅ…!うぅぅっ…!」
「ごめん…」
嗚咽に揺れる巨体に抱きつき、彼が落ち着くまでずっと背中を摩り続けた。
あぁ、そうか。このまま…もし私が暗い顔をしたまま目も合わさずに船を降りたら、ベポはこの先また泣いてしまうだろう。飛ぶ鳥後を濁さずならば笑顔で彼らと別れなければならないのでは…
「ごめん、ね…」
何かが変わったその瞬間、ふと見上げた空は淡いスミレの色だった。
次の日の朝、朝食のトレイを持ったシャチが船長室にやって来た
「はよ。」
「おはよ。」
「お…?」
「ん…?」
ちょうど着替えを済ませたところだった私は扉の前でキョトンと突っ立ったままでいるシャチを二度振り返る。
「何…」
すっかりちょんまげが新しいトレードマークとなったシャチは小首を傾げる私に少し顔を綻ばせると、やっと踵を鳴らしてトレイをテーブルに置いた。
「「いただきます。」」
いつもの様に向かい合ってご飯を食べ始めるもしかし…やはり彼の口元はまだ俄かに緩んでいる。
「シャチ、どしたの…何かいい事でもあった…?」
気にしない様にはしていたが気になって仕方がないので結局聞いてみた。すると
「いや…お前が、おはよってよ…」
「へ…?」
「俺の顔見ておはよって、言ってくれたから。」
ぴくり…フォークを持つ手が止まった。
「あぁ…」
…そういえば私、挨拶すらまともにしてなかったか。特にシャチには素っ気なく嫌味な態度を取っていた。遠くばかりをぼんやり眺めて目の前にある大事な一分一秒を素通りしていたんだ。
「あの…そうだ、あのねシャチ…私、これからの自分の身の振りをちゃんと考えていこうと思ってさ…」
ここでまずごめんねと素直に言える程、まだ色々と吹っ切れてはいなかった狭い自分。そして何だか彼が居た堪れなくなってとにかく話を前向きにすり替えた。
「身の振り…?」
「うん。どんな島に住んでどんな仕事しようかな、とか。ほら…もし次の島が冬島だったら、どっか他の暖かい島に移りたいし…。後、治安もそう海軍もそうで…よくよく考えてみると結構条件狭まってくるんだよね…でね?今朝方まで色々考えてたんだけど…」
「…考えなくていい。」
「そうそう。考えなくていんだけどね……ん、ん?」
「あ?」
「…え?」
ばつが悪そうに頭を掻きながら懸命に紡いでいた言葉はくるりとひっくり返され私はまた微妙な空気に落とされた。しかし彼はソーセージを咀嚼しながら平然とこう続けた。
「次の島はバンナ島、貿易が盛んな春島だ。王国の自立した警備軍があって治安も安定してるから海軍の駐屯もねぇ。」
「へ、へぇ…そっか、そうなんだ。じゃあ…」
「けど、どんな平和な島だろうがよ、どう考えたってお前が島に馴染んで普通に暮らせる訳ねぇだろ。どうせまた変な男に目ぇ付けられて裏の世界に足踏み入れるに決まってんだ。ジャカル島の二の舞だ。」
「な…」
棘のあるその物言いに顔がヒクつく。でも図星過ぎて言い返す言葉など見つからなかった。だって、海賊船で生まれ育ち裏の世界で暗躍していた私が島での普通の生活や仕事、一般常識に未だ疎い事は至極明白。
「あぁ…悪ぃ…」
だんまりと俯いてしまった私に気付いたシャチは慌ててフォークを皿に置くと身振り手振りを混じえながら言葉を足してきた。
「そうじゃなくて…、つまりアレだ。結局のところ、俺達がお前をポイと知らねぇ場所になんか置いてけるかって事だッ。心配で新世界どころじゃねぇ…」
「え、でも…次の島で降りるって…」
彼の意図が掴めず私は更に眉根を寄せたが、シャチはそこで白い歯を見せてニヤリと笑った。
「コレ食ったら操舵室行くぞ。ペンギンから話がある。」
「話…?」
「へへ。」
「最後の…船長命令だ。」