《5》
□海の月
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久しぶりに向かった操舵室
緊張する私は境界線の手前でふと足を止めた。
「俺は食堂行ってっから。終わったら呼びに来いよっ…後でベポと3人で甲板で遊ぼうな。」
逡巡する私に気付いたのか、シャチは敢えて軽い口調でそう言うと扉の手前で踵を返した。
私は心の中で彼に手を伸ばしながらもその背中が湾曲する廊下の先に消えるまでただジッと見送る。そして仕方なしと操舵室に足を踏み入れれば、待っていたのだろうペンギンさんがすぐに歩み寄ってきた。
「体調は?」
「へ…?あぁ、大丈夫です。」
「そうか。こっち座れ。」
何気無いようで実に違和感のある会話の後に促されたのはいつものソファ。
私はボフリと腰を下ろすがペンギンさんは立ったままだった。彼はまず、前髪を掻き上げながら帽子を浅くかぶり直して胸の前で腕を組むと、暫しの無言を保った。
最後の船長命令を預かるその澄んだグレーの瞳と眉上の傷がここからでもはっきりと見て取れて、私は無意識に喉を鳴らす。
でも表情を窺う限りは死刑宣告以上の話ではなさそうだ。そう思い至り余裕の態に着いた。
「お前の今後の事なんだが…」
「は、はい…」
その短い前置きに、もしかして船に残ってもいい…とか?だなんて、勝手な希望的観測がジワジワと両手を広げ始めた。
しかしあまりにも淡くて曖昧。まるでするりと指の隙間から逃げ出した宙を舞う風船の様で、私はそれを必死に掴み取ろうと狭い脳内を右往左往に走り回る。
だけれど
「次の島にポルドの船が迎えに来る。」
紡がれた言葉に途端、画面がバグった。
「え…?」
ギリッと微かに歯を噛み合わせた私に彼は更に続ける。
「否う理由はない筈だ。ポルドはお前にとってこの海で唯一、何を虞れる事なく自由に暮らせる場所。無論、俺達もお前を案ずる事なく先を進める。」
「……」
「ポルドは喜んでるぞ。国王やリンは既に宴の準備を始めて、用意した部屋には花まで飾ってるらしい。」
嬉しそうにそう話すペンギンさん。確かにポルドに行けば海軍や世界政府、他の海賊や賞金稼ぎに狙われる心配はない。
そして何よりリンやスリがいる。国王様やルジョルさん、端街にはジョン・ドンソン…いや、ソン・ジョンドン…えっと、あの人…ライルのお父さんも。
更に王族の城に住むのだ、町に暮らす島民達よりもいい生活が待っているであろう。何不自由なく、毎日が平穏で、普通の女の子として、おしゃれとかして…
「ぶふっ…」
しかし私は拳を口に当て吹き出した。
「どう、した…?」
さすがのペンギンさんもこれには虚を衝かれたようで訝しげに顎を煽る。
「あぁ…すいません。」
「……」
「ちょっと、ムカついて…」
追い掛けていた筈の風船はどうやらもうとっくのとうに手の届かないところまで風に流されていた様だ。
「何か、アレですよ…」
私は彼を斜めに見上げて微笑む。
挑発するような…嘲うような。
「私って本っっ当、無力だなぁ…って改めて思い知らされました。自分じゃ何も出来ない、何も決められない、明日さえ…ままならない。一体、何なんでしょうね…」
「……」
「知ってますか?クラゲって、海に浮遊するからこそ柔らかくて、暗く沈んだ夜も自ら光を放つんですよ。でも、陸に上がれば抗うどころか動く事さえ出来ずに干上がる自分をただ待つだけ。可哀想…っていうか、惨め。」
例えるならば…私はクラゲだ。
ふわりふわり…この船で海を進むからこそ、泣いて笑って潤っていた。
そもそも彼らに出会う前の私は酷いものだった。人を殺そうが男を裏切ろうが自分さえ良ければいちいちその先を見据えたりわざわざ後ろを振り返る必要もなかった。
己の命にすら価値を見出せず、でもそんな生き方しか知らないんだからそれが当たり前でそれ以外やそれ以上を求めたりしなかったし敢えてまでしようともしなかった。
なのに…
こんな私に水を吸わせて、私を自由へと導いて、愛する事と愛される事を教えられて。
大切なものとの別れ方なんて
誰も教えてくれなかったくせに…
「……」
「……」
ペンギンさんは帽子のツバを深く引き下げ押し黙ってしまった。初めて彼を負かした様で私は至極気分がいい。
そして去り際を知らせるかの様に大きく息を吐いてから立ち上がった私は彼の見えない瞳に向かってこう言った。
「ポルド行き…勿論従いますよ、船長命令ですから。有難過ぎて涙が出そうでしたって、船長にもそうお伝え下さい。」
「……」
「失礼します。」
扉を見据えて歩き出せば、他のクルー達の視線が一斉に私に向いた。でもそんな事はどうでもよくて。
ただひたすらに前だけを睨み
操舵室を出て行った。
それから暫く経ったある日の夜、たまにはどうかとシャチに誘われ私は見張り台で星の観測をする彼の隣で膝を抱えていた。
カリカリとノートに綴られる文字達をぼんやりと目でなぞる。
「へぇ…」
だいぶ風や雲を覚えたんだね
星の位置も完璧…
二人で勉強に励んだ日々が脳裏に蘇っていた。シャチは感覚が鋭く教えた事を理解して呑み込むのがすごく早かった。好きこそ物の上手なれの典型だ。
彼にはこれからもずっと空と友達でいて欲しい…そんな願いを柔らかく舞う風にこっそり託す。
「終わりっと。ふぅ…」
「お疲れ様。」
「へへ…」
バタンと閉じたノートを雑に放った彼はそのまま柱に凭れて組んだ両の手を頭の上に乗せた。
私もだらしなく足を伸ばして膝から下を柵の外側に垂らし後ろに手を付いて満天の空を見上げる。
「…キレイ。」
「あぁ。」
刻一刻と迫る別れのせいかそれとも浮かない顔ばかりする私のせいかは分からないがシャチはめっきり口数が減った。
ベポが言うには最近また夜な夜な彼の啜り泣く声が廊下に響いていて、クルー達からは気持ち悪いから本当にやめてくれとだいぶ詰られているらしい。
彼らにとっても苦渋の決断だった。
だから悲しいのは私だけじゃない。
心の中ではそう思えてもだけれど笑う事など到底出来そうになかった。
だって顔を強張らせていないと
口を引き結んでいないと
笑ったりしたら…泣いちゃうよ
「あぁ、そうだ…あのよ。」
「ん…?」
突然シャチが思い出したかのように口を開いたので、私は少し後ろに位置する彼を半分振り返った。
彼は目を上げてちょんまげの先を人差し指でくるくると遊びながら話し始める。
「ポルドのソーダ水がよ…」
…スリ、か。
「うん。」
「今じゃだいぶ国の顔になってるらしいな。政府とは上手く付き合ってっけど革命軍とも内通してるとかってよ。王位を継ぐのはリンだけど、国王が退いた後はツートップ体制でいくらしい。」
「へぇ…そうなんだ。」
「あのクソ生意気なガキがなぁ…」
全くもって意外…ではなかった。以前会った時から彼は既に外交の一端を担っていたし、革命軍との繋がりも彼の母親の存在があっての事。
まぁ、喧嘩腰なスリしか知らないシャチには彼のそんな一面にピンと来ないのも無理はない。
「けど、根本的な気質ってのはそう簡単に変わらねぇもんだ。」
「え…?」
「あの野郎め…今回の件、えらいご立腹でよコレが。」
私はすぐに足を引っ込め、背筋を伸ばしてシャチに向き直る。
「どういう、事…?」
シャチは、んー…と顔を顰めながら首を後ろに反らした。
「まぁ、アレだ…俺達のお前に対する半端な所業が許せねぇらしいんだ。だから奴、俺らにこう言ってきた。W頼まれなくとも名無しさんはポルドが引き受ける。そんでこの船とポルドの協力関係は今後一切絶つWと。」
「スリ…」
「あとついでに、も一つ…」
「……」
「トラファルガー・ローを一発ぶん殴らせろ…とさ。」
あの時…膝を突いて私にプロポーズをしたスリ。私を幸せにすれば自分も幸せになれると言ったスリ。彼の悲しみの瞳は強さを得た今も、縋る名残りは最奥にこそりと尖って潜む。
「ロー…あ、いや…船長は、何て?」
これ以上、余計な揉め事なんて真っ平御免だった。でも…
「あぁ…勿論呑んだ。」
「……」
「それ以外の選択肢なんか…あの人にある訳ねぇだろが。」
シャチは怖いくらいの眼差しを私に向けるとノートを抱えて立ち上がった。
「そろそろ戻ろ…冷えてきた。」
そして半ば無理矢理に私を引き上げ、先に梯子を降りていった。
…下船まであと3日