《5》

□絵空の囀り
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バンナ島の表玄関は島の南にある大きな港。貿易が盛んなこの島には様々な国から商船やタンカーが集い、ポルドの船もその一角に停泊していた。

夜が深むと山の鳥たちは次の朝を待ちわびてか痛い程の囀りを嘘のように鎮め、慣れ始めていた耳がその静けさに違和感を覚える。賑やかなほうが気が紛れてまだ良かったかもしれない。

「ねぇねぇ、名無しさんさん。」

「ん…?」

私には立派な客室が用意されていたが、今日はリンの部屋にお泊まりだ。お行儀は悪いが2人して大きなベッドに寝そべりながお菓子をつまむ。

「私、明日とあさっては昼間出掛けるんです。名無しさんさんは…どうしましょうか。ずっと船にいても退屈ですよね…」

「え?リンはどこ行くの?」

ぱくりとチョコを口に放ってリンを見遣ると彼女の頬を淡いピンクが染めていた。あぁ、もしかして…

「シャチと…デート??」

「は、はいっ。」

「そっか、良かったねっ。私の事は全然気にしなくていいよ?どうせほら、こんな腕じゃ外出れないし、適当に時間潰すからゆっくりしてきて!ねっ?」

昼と夜の2回お風呂に入ったが落ちるどころが滲みもしない腕の寄せ書きを見せて笑えば、リンも嬉しそうに微笑んで頷いた。

そんな可愛らしい彼女から刹那目を逸らす。私もいつかまたこんな風に誰かに恋心を抱く日が来るのだろうかだなんて。

しかし失ったばかりの存在が余りにも大き過ぎて、どうやらそれが空事の域を超える事はそれこそが絵空事でしかないように思えてふと…哀しくなった。

「あっ…そうだ…」

朧な思考は取っ払い、さっきからずっと心に引っ掛かっていた懸案を彼女に切り出す。

「あのさ…スリって、何かあった?」

昼間の彼の態度がどこか腑に落ちないままで。不本意そうな顔、感情を押し殺した目。今までと違う重い空気を感じていたから。

するとリンは大きく息を吐いた。こちらもまた不本意そうに顔を僻ませて何やら一物を抱えている様子だ。

「スリの奴…革命軍に釣り込まれてるんですよ。」

彼女にしては珍しく険を孕んだ口調に驚いて目をしばたたいた私は、チョコに伸ばした手を引いた。

「スリは革命軍から、国レベルでの協力体制、拠点の設置、そして政府内部の情報提供を慫慂(しょうよう)されてるみたいで…でもお父様はスリ個人ならばまだ黙許出来ても、革命軍との表立った繋がりには断固反対してるんです。」

「うん…」

「だけどスリはやっぱりお母様の事があるから相手を袖に出来ないというか…。何より最近は政府の奸策に嫌気が差してるみたいで、どうしても思想が右翼に傾きがちなんですよ…」

話を聞いて見えてきた。それで彼はあんな顔をしていたんだ。革命軍の事はよく分からないが、政府の汚さなら私も知っている。どうやらスリの中では、自身が抱える国の理念と芽生え始めた自己観念との板挟みだ。

「中途半端に力なんかつけちゃって…最近はやけに賢しいというか驕慢というか。何でスリはこんなに変わっちゃったんだろって凄い、悔しくて…」

「そっ、か…」

スリは元々そんな性分であるような気もしたが…それは言わずとした。

「でも、名無しさんさんがポルドに来る事できっとまたスリの何かが変わるって…私はそう信じてるんです。」

そう強く言い切ったリンの髪がふわりと揺れた。開け放った窓から生暖かい風が吹き込み悪戯をして、端に束ねられたカーテンを大きく膨らませていた。

それ以後…私達がチョコに手を付ける事はなかった。




















次の日、船まで迎えに来たシャチと共にリンは街へと出掛けていった。

「昼前だし先に飯食うか?」

白地に水色の花が咲くワンピースを着るリンの手を引きながらシャチは少し照れ臭そうに一軒の店を指差した。

なんせ堅気の女との真っ当なデートなど経験則がない。白く細い指をポキリと折ってしまわぬ様にと力加減に留意するだけでもいっぱいいっぱいになる。

しかも相手は名無しさんの親友で、ポルドの王族で、自分に惚れていて、そして不治の病を患っているリンだ。これが何事もソツなくこなすペンギンさんならまだしも、不器用なシャチにとってはなかなかのエキセントリックなシチュエーションであった。

「御馳走様でしたっ。」

「へへ…美味かったな。」

入った飯屋では注文した料理を全部たいらげたリンはその後に鞄から小さな巾着を取り出して白い錠剤を2粒、水で喉に流し込んでいた。

「何の薬だ?」

店員が空いた皿を下げる最中、何の気なしに聞く。

「これは手足の痺れを和らげる薬ですよ。少しは誤魔化せるんです。」

対処療法でその都度をやり過ごしていくしかないKRND。

「……」

勢いで死ぬのならば人はきっと恐くないであろう。しかし、じわじわと迫り来る己の最期をただじっと待つという事は一体どんな気持ちなんだろうか。

…俺だったら堪えらんねぇ

なのにリンは、終始笑っていた。



飯屋を出ると空には筆で掃いた様な雲が幾重にも青に連なっていた。柔らかい日差しに背中を押され2人はまた春の街を散策する。

「おぉ…リン、お前何が欲しい?何でも買ってやっから言え。」

名無しさんより背の低いリンを見下ろすと彼女は繋いだ右手にそっと力を入れてきた。

「いいですよ、そんな事。私はこうやってシャチさんと一緒に居られる事が嬉しいんですからっ。」

「あ〜ダメダメ、それはなしっ。俺が買いてぇんだから、買うっつったら買うの!言わねぇなら適当に選んじまうぞっ。ほれ、取り敢えずあの店!」

人混みを斜めに掻き分けてシャチが目指したのは大きな建物の一階にある賑やかな雑貨屋。

「欲しいの見つかるまで何軒でも廻っかんなっ…」

「は、はいっ…」

せめてもっと優しく諭せないものか…?しかし口から継いで出るのは粗暴な煽り文句ばかりで。ここでも自分の不器用さを恨んだ。

「えぇっとぉ…じゃあ…」

戸惑いながらも店内を物色し始めたリンの後ろをシャチはただ付いて歩く。

華奢な指がアクセサリーや髪飾りをつまんではまた戻し。迷ってるのか…それとも遠慮してるのか。だけど女ってやっぱり買物好きだよな…そんな工程すら楽しそうに映る彼女の瞳は、間接照明も手伝って心なしかキラキラと輝いて見えた。

「あ…」

微笑ましく見遣っていたリンが不意に足を止めた。カラフルな商品が並ぶ店内のその一角は尚更に女率が高い。

そしてふわりと彼女が手に取ったのは…グレーの毛色のテディベアだった。赤いリボンを首に巻いて両手で赤いハートを持っている。

「このクマ、目の色がシャチさんと一緒だね。ほら…」

「おぉ…?そうか?」

可愛らしい丸い目は確かにシャチみたいな透き通る薄い紅茶の色。

「私…これがいいです。」

ぬいぐるみのクマの目を嬉しそうに見つめる彼女にシャチの胸がぎゅっと痛く締まった。

「よしっ…んじゃこれに決まりと…」

シャチは奪い取るようにしてそのままクマをレジへと連れ立った。もうこれ以上…リンの顔を見ていたくなかった。



あちこちと歩き回っていたらそろそろ日暮れ時。船に戻る時間だ。

「じゃあ、アレだ…また明日な。」

港に停泊するポルドの船の前まで送ったリンに端的な声を掛けた彼はそそくさと踵を返した。

するとリンが

「シャチさん…」

…どきり

「あの…私、何か怒らせちゃいましたか…?」

歩を止めたシャチの背中に掛かる声は微かに震えていた。

「雑貨屋出てから…その…、手も繋がなくなったし、それに全然楽しそうじゃなかったし…」

彼女が抱える雑貨屋の紙袋に深いしわが寄る。可愛いクマがきっと今頃、中で苦しく顔を歪めているに違いない。

「ごめんなさい…デートだなんていってもシャチさんが一方的に気を遣うだけで疲れちゃいますよね。明日は…やめておきましょう。」

喧しい鳥の鳴き声を背にゆっくりと振り返れば、やっぱりリンは笑っていた。それがまた酷く彼の気に障った。

「…それ違ぇだろ。」

「え…?」

「なら俺も言わせてもらうけどよ…お前こそ今日、楽しかったのか…?」

初めて自分に向けられたシャチの低い気圧。そんな彼にリンは思わず一歩、足を引いた。しかしシャチは慄くリンの目の前でピタリ…腐す目を刺した。

「綺麗事なんざ何の意味もねぇんだよ。綺麗なだけの思い出なんて、ただのまやかしでしかねぇんだよ…」

「……」

「本当の事言えよ…死にたくねぇ、死ぬのが恐ぇって泣いて縋れよ醜態晒せよ。それとも何か、そんなお前見たら俺が逃げ出すとでも思ってんのか…ふざけんなっ!」

「……っ!」

その言葉にぶわり…見開いたリンの両目から涙が溢れ出した。手で口を押さえたところでもう嗚咽を隠しきれない程に。

「生きてる内はもがけ…!足掻け…!そんで死ぬ時に初めて心から笑え…!」

「ふぐ…っ!うぅっ…!」

途端その場に膝を崩しそうになったリンをシャチは腕に受け止めた。臨界を超えたリンは彼の胸に顔を埋め、そして…

「…恐い、ですよっ…!し…死にたくないに決まってるじゃないですかっ…!本当は、もっと…っ!…生きたかったよぉぉっ!!ううっうぅ…!」

…この時、彼女は全部吐き出したんだ

いつも大きな荷物を背負って生きてきたリンが…最初で最後の醜態を好きな男に晒したんだ

「名無しさんさん…みたいにっ…!強くてっ…優しいっ…人にっ…なりっ…たかった…!!私っ、もっ…もっと…っ…」

全身を震わせる彼女にするとシャチは及第だと呟いてから、やっと今日初めての優しい声色を掛けた。

「あいつも…名無しさんもな?いつもそうやって泣いてばっかだった。そりゃあもう…顔ぐちゃぐちゃにして鼻垂らしてよ、無様なんてもんじゃねぇ。けど、そうやって自分の気持ちと真っ向から向き合って真っ直ぐに生きてる人間を、例え他の奴等が嗤ったとしても…俺達は絶対ぇに嗤ったり見放したりはしねぇんだよ…」

「ぐうぅぅぅっ…!ぅう…っ!」

「だからお前も無理して笑うな、器用になるな。俺達はお前の事を生涯大事な仲間だと思ってっからよ…安い色恋とは訳が違う…」

リンは泣きながらも心の中で苦笑った。

それってシャチさん…
私、今…さりげなく振られてるよ?

「シャチ、さん…」

だけど不器用な彼の腕に包まれて不思議なくらい満ち足りていた。難儀ではない、有り得ないくらいこんなにも簡単に…

「ぐずっ…あり、がと…」

そして思い浮かぶはやはり名無しさんさんという大きな存在。彼女には自分だけでなく、ポルドもそしてこの人達も…一体どれだけ救われているんだろう。

「名無しさんさんの事は…何も心配しないで下さいね…私もあの人の中にある未来を…楽しみにしてますから…」

シャチは少し不服そうにくしゃりと眉根を寄せると、おもむろにリンの頬にキスをした。

「あぁ…頼んだ…」

そして涙を吸うようにリップ音を立て、彼女を強く抱き締めた。

「……」

「……」

リンの頬が真っ赤に燃え上がる。
見上げた空と同じ、美しい緋色。

「リン。」

「はい…」

「俺、この空の色…絶対忘れねぇわ…」

重ならなくとも、交わらなくとも
もうそれで充分だった

強くなれたから…

























貴方を好きになって…良かった

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