《5》
□さよなら大好き
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シャチとのデートだと張り切って出掛けて行ったその日の夕方に、リンは泣きながら帰ってきた。
びっくりした私がどうしたのかと思わず問い質すと、彼女は困ったようにくしゃりと笑ってこう言った。
…『シャチさんの優しさが嬉しかっただけ…本当にただそれだけですから。』
そして話を逸らすかのように可愛いテディベアを袋から出して、シャチに買って貰ったんだと嬉しそうに報告してきた。
…『私、このクマさん死ぬまで大事にします。でももしこの子が困った時は名無しさんさん?貴方が助けてあげて下さいね。きっと未来に受け継がれるって私…信じてますよ?』
まだ涙の余韻を孕む漆黒の瞳が強く私に向けられて、何故かドクリと心臓が疼いた。だからよく分からなかったけど、とにかくうんと…頷いた。
次の日も予定通り迎えに来たシャチと昼前から街へ出掛けていったリン。夜はハートの船でご飯を食べてくるから少し遅くなるらしい。
気を遣ってくれたルジョルさんが買物にでも行きませんかと提案してくれたが、私は首を横に振った。
理由を腕の寄せ書きとしたが本当はそうじゃなくて。もしトラファルガー・ロー達と街中でバッタリ会ってしまったら、一体どんな顔をすればいいのか分からなかったからだ。
ガチャ…
しかし日中ずっと一人きりではさすがに暇過ぎて頭がぼんやりしてくる。少し脳に刺激が欲しくなり、コーヒーでも飲もうかと踵を引き摺り部屋を出た。
廊下に並ぶ大きな窓には、ちょうど山の稜線が途切れた平野からの西日が斜めに鋭く射し込んでいた。
その規則正しく連なるオレンジの光を通り過ぎる度に瞳孔が強く収縮する。ついでに鳥の鳴き声もまた、明け方よりこの夕暮れ時が一番賑やかなようであった。
そっと中の様子を窺いながら広い食堂に入ると、既に奥の厨房ではコックが夕食の仕込みをしており、テーブル周りではナプキンやカトラリーをセッティングする給仕達が忙しなく動いていた。
「すいません…」
私は軽く会釈をして壁際の棚に置かれているコーヒーメーカーから白いカップの中に湯気を注いだ。
皆の邪魔にならぬよう出入り口に一番近い席に腰を下ろして一口啜る。ハートの船のそれとは違う少し変わった苦味。
…この味にも、慣れないとね
そんな事を思いつつもまた立ち上がり、こそりとポットのお湯で薄めてから再び味わう。そして喉を通った熱と共にぼんやりと溜息ではない息を一つ吐いた。
その時…
「冴えない顔…」
ガタリ…
私の正面…ではあるがしかし向かいのテーブルに同じ方向を向いてスリが座った。今日はポルドの衣装ではなくラフな私服だ。
「嗜好に合わないコーヒーなんか無理して飲まなくていいんじゃないの?確かあんた用にって茶葉をたんまり…あぁ、まぁいっか別に。」
彼はつまらなそうに頬杖を突いて肩越し微かに私を視界に入れた。
「……」
「……」
その横顔はやはり冷たいというか何というか。リンの言う通り、今の彼には狷介な雰囲気がひしひしと漂う。だから私は出来るだけ明るく振舞った。
「う、うん…でも、嗜好というかまだ慣れてないだけっていうか…ハハ。」
「……」
「でもポルドのビールは美味しいよね、私大好き。だから後でさ、久しぶりに一緒に飲もうかっ?リンも今日は帰りが遅いみたいだし。」
彼がお酒を飲まないのを知りつつ、でも少しでも腹を割れれば彼の真意が見えてくるかもしれないだなんて薄っぺらい期待に、するとガダン…!
「あんたは…本っ当に変わらないよな。それってさ、呑気?天然?」
「え…?」
スリは椅子ごと身体を此方に向けると私の正面にある椅子の背凭れにクロスした足を乱暴に乗せた。ルジョルさんが見たらきっときつく叱る態だろう。
「何が楽しくて俺があんたと仲良く酒飲まなきゃなんないの?俺が今、どんだけ腹わた煮えくり返ってるかとか、図る事って出来ない訳?」
低く煽るような瞳には濃い霧が宿る。しかし私はその霧の正体を知りたい。だから敢えてここで退かなかった。
「何が言いたいの…?」
「俺さ、このタイミングであんたがポルドに来るって聞いた時…あぁ、これは運命だって思った。」
「……」
「やっとあんたは俺のものになって、俺をまた掬い上げてくれて真っ直ぐ前に導いてくれるんだって…」
そこで一度天井を見上げたスリは馳せる思いを蔑むように自嘲した。
「けどあの船長さん…この前何て言ったと思う?あんたをポルドに捨て去るくせに、偉そうに俺に何て言ったと思う?」
トラファルガー・ローが…スリに?
そんなの知る訳がない。何よりその時の事を一番知りたいのは私なのだから。
「W手に入らない女を命掛けで護る覚悟がお前にあるかW…だってさ。」
それが人に物頼む時の態度かよ……スリは苦った風を装ってまた笑って見せた。
「さすが2億の男は言う事が違うよな…常軌を逸脱してる。」
「……」
「だから約束通り、一発ぶん殴った。」
私は首を傾げて目を逸らした。あのトラファルガー・ローが本当に頬を差し出しただなんて。彼を知る人間ならば誰しも俄かに信じ難い話である。
でも勿論、スリが嘘を付いている筈もなく。じゃあ何でそこまでして私をポルドに置こうとするの?そんな疑問だけが砂のようにざらりと残った。
「ごめんなさい、嫌な思いさせて。全部私のせいだから…」
「別にあんたが謝る事じゃない。」
「でも…」
「俺も船長さんには言いたい事言わせてもらったし、昨日はペンギンにも会ったし。ふふ、あの人もなかなかの苦労人だよな、あんな船長さんの下に就いて…」
…ペンギンさん
「何で、ペンギンさんと…」
私の言葉をするとスリは手で制して立ち上がり、くるりと背を向けた。
「あぁ、それとルジョルから聞いてなかった?あんた、今後酒禁止だよ。」
そのまま食堂を出て行こうとしたスリに私もそれ以上何か言うつもりはなかった。だけどつい、声を掛けた。
「…リンが心配してるよ?最近のスリは何を考えてるのか分からないって…」
彼は前を見据えたまま怠く足を止める。
「何がだよ…」
「スリ…革命軍に行くつもりなの…?」
私がスリのベクトルに踏み込む資格などないであろう。でも、彼にはポルドを捨てて欲しくなかった。
「スリのやりたい様にやればいいと思う…だってスリの人生だから。でも、もしもね?もし少しでも迷いがあるならば、今はまだ留まるべきだと私は思う…」
「……」
「だって私が知ってるスリは、ポルドが大好きで、国王様やリンやルジョルさんが大好きで。だからいくらお母さんの事があっても、簡単に故郷を捨てたりなんか出来な…」
「なぁ、名無しさん…?」
鼻で笑いながら彼は振り返った。その顔色は変わらずとも酷く物悲しい。やっぱりまだ触れるには早かったかと私は自分を恥じて俯いた。ところが、スリの返しは斜めからだった。
「あんたはいちいち人の心配してる場合じゃないんだよ。それにそもそもそれはリンの早合点だ。革命軍は俺にとってただの理想郷でしかない。」
「え…?」
「確かに揺らいだ時期もあった。でも今回、俺がトラファルガー・ローを殴ったって事は、すなわちあの船とポルドの契約は成立したって事。」
「……」
「リンに言っといて…余計な心配するなって。あんたの事もポルドの事もこの先全部、俺が護るって。」
伝えられた強い意思に逡巡していたその隙にスリは廊下へと歩き出していた。
「……」
彼は変わってなどいなかった。むしろ以前より強く逞しくなっていた。そう感じる事が出来て…凄い嬉しかった。
…大事な物って、そう多くない