書庫<幕恋:短編メイン>

□月涙
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満月の夜の涙はカグヤヒメの涙・・・

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今日もまた満月の美しい夜だ。

名無しはまた庭に出ているに違いない。

音を立てない様にして縁側に出て庭を伺えば、名無しは池のそばに佇み、空を見上げている。

満月の青白い光と、その光を受けて煌めく池の水とに挟まれ、頭上も足下も光輝き立つその姿は、まるでそのまま光に吸い込まれ虚空へと上昇して行きそうだ。

『まるで伽噺のカグヤの様な・・・』

月夜の名無しの佇まいを見る度に、どうしても連想せずにはいられない。

今日初めて見るわけでもないのに、現世のものとも思えない、幻想的な光景に息をも潜め、魅入ってしまう。
・・・と、同時に、その光景の持つ危うさに背筋が凍るような恐怖を、覚える。

こうして名無しが満月の夜に庭に出るのはいつの頃からだったのだろう?

初めて見たのは、まだ冬の寒さを残した早春の夜だった。

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「名無し?」

驚きと軽い苛立を含んだ声で名前を呼ぶ。

この寒さの中に立って、何をしているのだ?
風邪でもひいたらどうするつもりなのだ。
まったく考えのない事をする。

しかし名無しは、私の呼ぶ声などまるで聞こえない様子で、ただ庭に立ち満月の月を見上げている。

苛立は腹立たしさに変わり『何をしている?』と、大きな声を出そうとした瞬間・・・

名無しが、静かにこちらを振り向いた。

月明かりの中、名無しの頬は濡れていた。

『泣いて・・・いるのか?』

叱ろうとしていた言葉が喉で止まり、心の臓が一瞬止まりそうになる。

言葉もなく虚ろな瞳を私に投げかけると、名無しはまた後ろを向いて月を見上げる。

その背中は、華奢であればある程に、鋭い剣の様な近寄ってはいけない鋭さと拒絶感を持っている。
いつもはまだまだ子供の頑是なさを残し、揶揄えばすぐにムキになる娘なのに、この様子は・・・何なのだ?

『カグヤ・・・』

無意識に浮かぶ昔の伽話。

結局、私は何も出来ずにそのまま名無しを見つめ続けるしかなかった。
やがて月が藩邸の屋根の向こうに隠れ、名無しが相変わらず無言のまま自室へと戻って行くのを見届け、自分も部屋に帰ったのだった。

しかし、あまりにも不思議な悲哀に満ちた光景が頭を離れず、一睡も出来なかったのだった。

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