短編


□雨
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衣擦れ音が妙に鼓膜に残る。
衝立越しに着替えるあかねに、気にしてしまう自分に呆れていた。
急な雨で濡れた髪は、いつも見る彼女をなまめかしく視界に映りこませ、釘付けになる。項に張り付く髪の毛も、滴る雨の雫が首筋に落ち、着物に染み込んでいく…全て…美しく見え。

つい、ため息をこぼしていた。

…こんな事で…どうする…

…だけど…綺麗だったな…

小さな頃から知るあかねに、次第に胸が高鳴り、隠れた気持ちが顔を覗かせる。

…触れたい…

…抱きしめて…俺しか知らない…あかねの乱れた姿が見たい…

生唾を飲み、頭を冷やそうと部屋を出た。
廊下に出ると、外気が冷たく次第に頭に冷静さを取り戻していく。

近頃の彼女の評判は、至る所で聞いていた。
遊女に似つかわしくないあどけない表情と、優しい心遣い…彼女と話した客は、みな魅了されていく。

“藍屋のあかねは、不思議な魅力をもった子や”と…

俺が一人で焦っていることなんて…あかねにはわかってないだろう。

…あんまり…遠くにいくなよ…心配になるんだ…

それに、あかねの周りには男の俺から見ても格好いい人が多いから…おちおちしてられない…けど、それだけ多くの男から好意を寄せられていること自体、本人が気づいてない…

多分、俺の気持ちも分かってない…

ため息が深いものに変わっていた。

『ねえ…翔太くん…少しいいかな?』

襖が少し開き、肩を軽く叩かれた。頬を染めたあかねが顔だけ覗かせた。
その仕草すら、ドキッとするのはかなりの重傷かもしれない。

『どうかしたか?』

『うん…少し手をかして欲しいんだけど…いいかな』

『いいよ』

部屋に招き入れたあかねの姿を見て、固まってしまった。
着物の袷がだらしなく開き、いつもよりも胸元の肌が見えている。
無意識に生唾を、ゴクリと飲み込んでしまった。

濡れた髪の毛から、雫が胸元に落ちる。

目線を逸らしてしまった。

二人の間にあった二三歩の距離をあかねが詰めた。

無意識に一歩後ろに後ずさっていた。

…それ以上…こっちにくるなよ…

…抑えられなくなるだろう…

俺の気持ちなど構うことなくあかねが近づき、袖を引く。

『あのね…翔太君…着物が脱げないの…だから…あのね………をはずして欲しいの…』

…着物が…脱げない……はずして欲しい…!?…

『…いや…さすがにそれは…まずいと思うんだ…だって、あかねは新造だろう…やつぱりそれは…藍屋さんに悪いと思うし…
こんな風にその場の流れで……だめだよあかね…やっぱりだめだ…』

最後は、自分自身に言い聞かせるように呟いていた。
だが当のあかねは、首を傾げて不思議そうな顔をしている。

『翔太君、どうかしたの?だから、着物が濡れて脱ぎたいんだけど、締めてる紐が固くてとれないから、はずして欲しいんだけど…』

一瞬何を言われたか頭の中でフリーズし、言葉をかみ砕くように理解した。

『………えっ!……ああぁ…そういうことか…ははっ…わかった外すよ…』

招き入れられた部屋に入り、固くてとれない紐をほどき始める。

…確かに雨に濡れて固くなってるな…これじゃとれないよな…

紐の結び目を緩めようと近づき、目の前に彼女の胸があることに…急に手元がおぼつかなくなっていく。

…うっ…近いな…いやいや…集中集中…
だけど…あかねは、昔と比べて胸が膨らんできたよな…

あらぬ想像に、軽く首を振りながらおざなりになっていた指先を動かし始めた。

『翔太君…髪の毛、濡れてるね』

不意に伸ばされた手に俺の髪の毛を優しく撫でる手付きに、動揺していく自分自身。

…それ以上、煽るなよ…

…これでも我慢してんのに…

何度も心の中で“落ち着け”と繰り返し固い結び目を解いていった。



『翔太くんありがとう…助かった…本当に固くて取れなかったんだ』

ついたて越しに話すあかねに雨に濡れた着物がパサリと落ちる音がする。

ドキドキと心臓が煩く、ついたてに背を背け、うろうろと歩き回っていた。
さっきまで解いていた紐の感触が手に残っている。触れられた髪の毛もあかねの指先の感触を覚えているような気がして…知らず知らずのうちに名残惜しむように自分で触れていた。

『翔太君、早く着替えないと風邪引くよ』

いつの間にか着替え終わったあかねが不思議な顔してこちらを見ている。

…今の…見られたか?…

恥ずかしさで、耳まで真っ赤になっていく。
だけどあかねは、気づいていないみたいだ。

…こういうところは、本当に鈍感なんだよな…


部屋の隅に置かれた着替えを持ち衝立に向かう。
あかねが着替えてる間に着ればよかったのにと今更ながら、何をやっているんだと呆れてしまう。

『あ…ごめん…そこで着替えるよ』

『そっか…待たせてごめんね…』

『いや…いいんだ…じゃあ着替えるよ』

『うん』

衝立の裏側に来ると、先程まで着替えていたあかねの残り香が鼻をくすぐった。

あかねも香を焚きしめるようになったのかと…離れている間に…どんどん俺の知らない女性になっていくみたいで…焦燥感が心を渦巻く。

…はぁ…とため息を吐いて、今日はつくづく彼女に翻弄されっぱなしで、濡れた着物を着替える指がおぼつかない。

『ねぇ、翔太君…今日…雨に濡れて、小学校の頃の事思い出しちゃった。確かあの日も急な雨で、傘もってきてなくて、家が近かったから二人で走って帰ったよね…でも、家に誰もいなくて……』

…小学校の時…?…

ああ……あの日のことか……確か小六の頃の話だよな…
でも…あの日も、ドキドキしてたことなんてあかねは知らないんだろう…

確か夏で…雨に濡れてTシャツが透けてたんだよ…
あんまり見ちゃいけないと思って、今日みたいに廊下にいたんだよな…
そんな事、気付いてないんだろうけど、俺にとったら初めてあかねが女の子なんだって意識した瞬間だった。

身体の作りだって違うんだって…雨で気づかされたんだ。

着替え終えて、衝立から出た。

着ていた着物を衝立にかける。

…バチ…バチ…

火鉢の炭が燃える音がして、その傍らであかねが丸まって眠っている。
穏やかな表情で寝ている彼女の隣に腰掛けた。
まだ濡れた髪の毛を梳き、艶やかな黒髪が指先を滑って落ちる。

『あかね、あんまり遠くに行くなよ…まだ俺の目の届く所にいてくれないと…俺…』

『…しょ…う…た…くん…』

『何、あかね…?』

呼びかけても起きない彼女に寝言なんだと分かった。
だけど俺の名前を呼んだ彼女の顔は、あの頃のあかねの顔…そのままで幼い頃の記憶を読み解くように、あの日と同じ…キスをした。


おわり

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