蛟堂報復録

□名島瑠璃也の災難
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 俺は逃げる。走って、走る。ただ、ひたすらに。
 夕焼けと宵闇の入り混じった、奇妙な空の下を、必死に走った。“それ”を見てしまったのは全くの不可抗力だった。
 だって、授業を終えた学生が家へと帰る為に駅へと向かうのは当然のことだろう?
 俺の家はキャンパスのある最寄駅から二駅分の場所にあったが、しかし、その距離を歩こうだなんて滅多に思わない。遵って、その光景を見てしまったのは俺が悪いわけではなく、どちらかと言えば相手さんが悪かったのだ。
 はっきり言おう。俺は悪くない。嘘じゃない。
 俺は、いつものように駅前で買ったパンを齧りながら定期を改札に通して、少し混み始めた電車に乗り込むはずだったのだ。――パン屋へ入ろうとしたところで、それを、見さえしなければ。
(止まっちゃ駄目だ、止まっちゃ駄目だ)
 方角は多分、こっちの方向で合っていると、思う。
 こうなったら家まで――もしくは、幻影書房まで走るしかない。高校卒業以来ろくに運動なんてやってない怠惰大学生にとって、それはかなり無理のあるマラソンだったが、そんなことを言っている場合でも無かった。
(助けて太郎ちゃーん!)
 こんな時こそ巻き込みたい親友は、今日に限って店番を頼まれているらしく、いない。
(明日はきっと筋肉痛で動けないだろうなっ)
 もうすでに大分切れてきた息をぜえはあと吐き出しながら、それでも足を止めることのできない俺の顔を一羽の鴉の爪が掠めた。

「ぎゃっ!」

 頬に僅かに痛みが走る。爪で抉られたような痛みではなく、紙で指を切ってしまった時の痛みに近かったが、それにしても痛いものは痛い。

「な、何するんですか! 三輪さん!」

 そこで、俺は初めて俺を追いかけてくる相手――蛟堂の店主である三輪辰史を振り返って泣きそうになりながら、叫んだ。
 三輪さんは獲物を狙う蛇のような顔でにぃ、と笑う。多分、舌先とか二つに割れてるんじゃなかろうか、あの人。

「瑠璃也君、良い子だから止まろうな? 疲れただろう?」
「い、いやですよ!」

 止まったら多分最後だ。

「なァに。悪いようにはしねえよ。ただ、記憶をほんのちょっと消す程度で、怪我させたりとかしねえから」
「それが一番怖いんですけど!?」

 やると言ったらやる。この人は加減を知らないから、きっと俺は捕まったが最後今日の午後からの記憶を全て失うことになるのだろう。酷い話だ。


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