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□さようなら楽園
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もしかしたら私は期待していたのかもしれません。あの人が私を引きとめてくれるんじゃないかと。だってそうじゃなかったら新しい靴をおろしてまでオシャレをしたでしょうか。可笑しな話ですね。だって私はあの人に別れ話をしに行ったというのに。靴擦れまでして、私は何をしているのでしょうか。泣いておちるとわかっていたのに丹念に時間をかけた化粧も、ただの意地なのでしょうか。結末なんてわかっていたのに、それでもあの人と世間で言う不倫という関係にいたのは愛があればこそなのでしょうか。たくさんの人を傷つけてまでその愛を貫くことに意味はあったのでしょうか。そもそもあの人は私を愛してなどいたのでしょうか。生まれて初めて言われた愛してるの言葉に浮かれた私と適当に遊んでいただけなのかもしれません。涙が出ないのは、悲しすぎた所為なのでしょうか。痛まない代わりに空洞になったような心は何で埋めたらいいのでしょうか。ただ、不思議とこの空虚感だけに私は安心を覚えています。

私の住むアパートまで10メートル、子供っぽい私には似合わない高いヒールの靴を脱ぎ、裸足で歩きます。ぺたり、ぺたり、落ち込んでいるのに鼻歌を歌いながら階段を登ります。私の住む階の一つ下の階へと足を踏み入れました。深呼吸を繰り返して、一歩ずつ近づきます。手が震えて届きそうで届かない呼び鈴、もしかして私から逃げているのではないのでしょうか。きっとこの呼び鈴ですら彼と私を会わせたくは無いのでしょう。

すると不意に扉が音を立てて開きました。勿論、そこから現れたのは私の真下に住む柿本くんです。彼がどうして私に気付き、扉を開いてくれたのかはわかりませんが、彼が怪訝な顔をするであろうことだけはわかっていました。


「この状況に言いたいことがたくさんあるのはわかります。でも、今は何も言わずに聞いてもらえないでしょうか」

「…どうぞ」

「私は、私は柿本くんを利用しました。ごめんなさい。柿本くんの好意を利用していました。この間、柿本くんに抱かれたのも、好きって言ったのも、嫌なことがあって、それで、気を紛らわせたかっただけです」

「……」

「本当にごめんなさい。都合がいいようだけど、あの夜のことは忘れてください。もう、一生視界に入らないようにするし、話しかけたりも絶対にしません、言われれば引っ越します」

「…本当に都合のいい話ですね」

「…ごめんなさい…」

「謝られても困るし、それに忘れようとして忘れられるものでもない。それは自己満足の為の自己完結です。」

「……ごめんなさい、じゃあどうしたらいいんでしょうか」

「…殴らせて下さい」

「……それで柿本くんの気が済むなら、好きなだけ殴っていいよ。」

ふう、と彼がひとつ溜息を落として、彼の右手がこちらに向かってくるのがわかり、咄嗟に目を瞑りました。防衛本能です。ところがどうでしょう、痛みが訪れるどころか私は、その大きな手は私の頭をあの日と同じように優しく撫でていたのです。

「…かき、もと…くん…?」

「…騙されるわけない、まして君はわかり易い性格をしていて、」

「……あ、の」

「だから、あの言葉が嘘だってわからない筈がなかった」

「…じゃあ、…」

「君が俺を利用したなら、俺は君の弱ったところにつけこもうとした。だから、謝られても、困る。」

それはとても単調なリズムの独白のような懺悔のような、何故かしら当事者のはずの私は何も言えず聞いていることしかできませんでした。冷えたコンクリートにつけた裸足と夜特有の気味の悪い風に体温を奪われ、彼の手が触れる部分だけが微熱を持って燻るように温かいままでした。

「…でも、後悔もしてないから、悪いけど俺は謝れない」

どうして柿本くんが私を好きになってくれたのか全然わかりません。だって私はこんなに最低なのです。最低で最悪で、どうしようもない女です。誰かに優しくしてもらえる権利なんて持っていないのです。それなのに、どうして彼は優しい顔をするのでしょうか。私は彼の笑顔を見たことはありません。でも、彼の笑顔はきっとこの世の何よりも優しいのだろうと私は思いました。だって触れる手にも、声にも、私の涙腺は反応して、柔らかな涙を流しそうになってしまうのです。そして、くしゃっと私の髪の毛を撫でて、その手は離れていきました。

「…ぁ…」

「…おやすみ」


ぱたん、と閉じられた境界線の扉が無機質特有の圧迫感を私に与え、帰れと言われている気がしました。今になってまた再び痛み出す靴擦れになんだか涙を誘われて、唇を噛み締めて俯きました。するとコンクリートに染みがひとつ、ふたつ。みっともないことに私は靴擦れの痛みに泣いてしまったのです。痛い、痛い、と泣いていました。

どうして私は彼に謝ろうと思ったのでしょうか。罪悪感に耐え切れず?そうかもしれません、だって私は弱いのです。弱くて惨めなのです。それならその罪悪感はどこからきたのでしょうか。私は、…きっと私は柿本くんに嫌われたくなかったのでしょう。だって本当は気付いていたのです、私は彼に会うたびに彼に惹かれている自分に。それなのに、あの人への執着心とも言えるものに必死に隠して彼に甘え続けました。どちらも手放せずに、一途で不幸な女を演じていたのです。


「柿本くん…ごめんなさい、私…私は柿本くんが…」


今更、私は何を言っているのでしょうか。もう、信じてもらえるはずがありません。どうしてこうも私は愚かなのでしょう。私は自分勝手で我侭で、人に愛されるべきではないのに、愛されたくて仕方ないのです。そして、そのくせ愛が何かをよくは知らないのです。愛や恋は漠然と何かとても素敵なもののような気がしていました。だけど、実際は私にはそれらは誰かを傷つける刃物のようにしか感じられません。そして傷つくだけ傷ついて、何ひとつ残りません。残ったのは、靴擦れの痛みと、コンクリートに落ちた涙の跡だけです。

きっと今の私はひどく醜い顔をしていることでしょう。でも、いいのです。だってこれが私の本当の姿ですから。きっと腐敗すらしているに違いないのです。

ぺたりと右足を剥がしました。すると勝手に左足もぺたりと動き出しました。心が此処から動きたくないと駄々をこねました。ですが、きっと神様が私の悪行を見兼ねて天から操作してくれているのかもしれません、足は動きます。一歩、二歩、小さな小石を踏みました、痛いですが、足は止まりません。そして心はまた沢山の涙を流します。足跡ならぬ涙跡が私の辿る道にはついていることでしょう。今夜は晴れているというのに、きっと皆さん不思議がるでしょう。そしてまた進みます、一歩、二歩、ところが私の体は神様の操作に反して立ち止まっていました。

「…離して、下さい…」

「断ります」

「お願いですから、もう私に優しくしないで…」

「無理です」

「私の中に入ってこないで…」

「嫌です」

「どうして…っ…」

「好きだから」

コンクリートへ落ちるはずの汚い汚い涙は彼の肩口に吸い込まれていきました。灰色しか見えなかった世界に彼の匂い、声、感触が現れてまるで変わってしまう。その感覚が私にはとても恐ろしいのです。何も聞かない彼に全てを許された気になって、乗り越えたつもりにすらなるのでしょう。不思議ですね、彼の声を聞いただけで痛みを抱えていた部分が蕩れるようにじんわりと温もりを持つのです。だけど、私はそんな自分が大嫌いです。ご都合主義なくせに厭世主義で、くだらないしがらみに囚われてばかりなのです。私は彼に好きだと言われる度に自分が大嫌いになっていきます。だけど、困ったことに彼のことが嫌いなわけではなく自分を大嫌いなので、彼も断ち切ることが出来ません。だから恐怖しているのです、こうして私を好きだと言ってしまえる彼が怖くて怖くて堪らないのです。

恋をするのに早さなんて関係ないとはよく聞きますが、恋愛をするのに順序は関係あるのでしょう。だって考えてしまうのです。もう少し、彼に早く出会えていたら、私は今笑っていたのかもしれないと。わかっています。これはどうしようもない『もしも』のお話です。だけどどうしても願ってしまうのです。今までのことを全部帳消しにして彼と出会えたなら、と。


「私は…私は柿本くんのことなんて…すき、じゃないよ」

「知ってる、…嘘つき」

その嘘つきという言葉が一体どこに繋がれているのかはわかりません。この間の夜のことを言っているのかもしれません、もしかしたら、今のことを言っているのかもしれません。わからないことはまだたくさんあります。彼が私を好きになった理由も、私の手が彼の腰から剥がせない理由も。嘘です、後者は本当はわかっています。だけど、わたしは罪人なのでわからないふりをしましょう。救いを求めることは私には出来ないのですから。


言われれば耳を塞ぎましょう。
見つめられたなら目を瞑りましょう。
請われたならば口を閉じましょう。
触れられたならば振り払いましょう。

だけどやっぱり私はずるい人間です。だからどうか甘く見てください。どうか、どうか今だけは『もしも』に生きさせてください。

例え代償に、自分を愛せなくなったとしても。







end

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