インスマスからの脱出~SALVATION
□SALVATION 1
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※注意※
この続きは蛇足です。
ご都合主義ですので過度な期待はしないでください。
「………」
遠くから清らかな鐘の音が聞こえて、エルドリト・リーだったものはゆっくり眼を覚ました。視界に映ったのはどんな純白よりも白い空だった。空気と思われるものはどんな山脈の頂上よりも綺麗でエルドリトの肺は苦しみすら覚えていた。
ゆっくりと体を持ち上げると彼が目覚めた場所がどこまでも白い床におおわれた異様な空間であることが分かった。どこまでも、何もない空間。そこに居るのはエルドリト・リーだけしかいない。
服は着ている。よく着馴れたアメリカ陸軍の軍服だった。だがいつも持ち歩いている筈の装備は入っていないようで軽い。
「……ここ、は…?」
震える唇。
「俺は、生きているのか?」
瞳が見開き、手がわなわなとふるえる。エルドリト・リーが自らの手をみる。深きものとしての変質はそのまま残っていた。ゆっくりとその手を首元に当てる。小さなエラが呼吸に合わせて動いていた。
「あ、ああ・・・あああ・・・・!!」
震える体を自ら抱き込むようにエルドリト・リーは腕を抱き、身を縮め込ませた。口からは悲鳴がこぼれる。かすかに残っていた正気が悲鳴を上げる。自ら人間として最後の理性をもってして命を絶ったというのに、その続きが始まってしまったことに彼は絶望していた。
だれか、殺してくれ。もう終わらせてくれ。これ以上苦しみたくない。終わりにしたい。
そうだ、服をきているじゃないか。今度は自ら首を絞めればいい。しかし、それでこの体は死ぬのだろうか? そもそもここは何処なのだろうか。こんなところで死ねるのだろうか? 終りが訪れるのだろうか? このまま、ここで、永遠に…!?
「はいはい、すとーーーっぷ! いきなり発狂されてもこっちが困るんだけどー?」
異様に陽気な少女の声が退化の道をたどっているエルドリト・リーの耳に届く。ゆっくりと顔を上げる。
「エルなんとか・リーでしょ、あんた?」
目の前に居たのは…エルドリト・リーの世界では見ない洋服に身を包んだ少女だ。あえて言うならば男子もののベストと燕尾服を混ぜたような服だ。短い黒ズボンに紺色の水玉のストッキングをはいて、足にはローファーをはいている。瞳は黒く、しまりの悪い短い黒髪は縦横無尽に跳ねている。もし彼のいた時代にこんな服装の少女がいたら、いくらアーカムでも白い目で見られること間違いない。
「ねぇ、あんたエルなんとか・リーでしょ?」
再び尋ねられてエルドリト・リーははっとした。無言のまま頷く。
「よかったー。ニャル君から言われた通りの容姿で助かった♪」
にっこりと少女は笑っている。
「自己紹介! 私はアグリッピナ・ウィロー! 可憐でかわいい魔術師でーす!! よっろぴっくー♪ あんたをここに連れてきたのは私なんだー♪ そうそう、あんたは現世で間違いなく死んでいるから安心してね」
その情報はエルドリト・リーの頭にすぐに入ってこない。
「私の仲間があんたにすごーい迷惑をかけたんだけど、それを可哀想って思うやつが結構居たから、あなたを! 救済しに! 来ちゃいましたーっ!」
勝手に少女は言葉に合わせて踊り出す。エルドリト・リーは茫然としていた。
「俺を…? 救う?」
「でもただ救うわけじゃぁないよ!?」
ずいっ、とアグリッピナが顔を乗り出してくる。エルドリトは体を引かせた。
少女の眼は、夜空のように輝いていたが、同時に深い深い闇を包容していた。
「私たちの魔術は死んだ人間を蘇らせたり、遺伝的な変化をなくすことはできないんだ。だからあんたを現世に戻すことはできない」
両手で胸を指しながらアグリッピナは語る。
「でも、夢の中なら話は別!」
少女は人差し指でエルドリトを指さす。
「あんたは夢の中で普通の純粋な人間に戻って、夢の中で死ぬまで、その夢の中で生活できるよ。夢は夢でも、その夢は現実と寸分変わらない現実味を帯びている。君の心はこの夢を現実だと思い込む。だけど深きものの血はあんたを決して脅かさない」
“深きものの血”と聞いてエルドリト・リーが僅かに反応を示した。その秘密は決して普通の人間では知りうるはずもないものだ。それを知るのは深きもの自身だけ……力ない言葉でエルドリト・リーは尋ねる。
「お前は、何を…知っている?」
いや、重大なことをエルドリト・リーは知らない。
「お前は何者なんだ…?」
「遥か遠方…暗黒の軸より訪れた侵略者(インベーター)」
アグリッピナは詩人のように語り出す。
「私たちはあんた達の世界じゃあり得ない力を得た人間…超人なんだ。圧倒的な丈夫さと精神力を持っている。自由に魔術を使い、脅威をなぎ倒し、自由に次元を行き来する。そう、選ばれた神様みたいな人間」
邪悪な笑みを浮かべて。
「そして私は“精神の旅人”。人々の心の中の全てで、私は何処にでも居て、何処にも居ない。ありとあらゆる人の心の中に私は存在できる。そして精神(ココロ)を操るすべに誰よりも長けている」
まるで精神異常者の戯言のようにも感じられるその発言に、エルドリト・リーはつかみどころのない恐怖を覚えた。彼女の語る言葉は絶対的自信に充ち溢れている。それが本当に起こっているかのような錯覚をエルドリト・リーに与えているのだ。
エルドリト・リーが恐怖を感じ取っていることを察知したのか少女は、少女らしい無垢な笑みを浮かべた。
「……ごめん。エルちゃんは何も知らなくていいよ。分かんない方がきっと幸せだもん。
エルちゃんは今から生きかえることができるって思って。それで十分。
時間がないからさっそくやるけど、あんたが自殺する一日前に、人間として送ってあげるから、そっからは自分で選んで、がんばってね?」
少女が手を振る。
「今から見る夢は、夢だけど、現実と寸分狂いない。理不尽なこともある。すごく痛いこともある。苦しいこともある。悲しいこともある。当然のように死も。でも楽しいことも、幸せなことも、うれしいことも、生も、何もかもが現実と同じようにあるよ」
少女が指を小さく振った刹那、エルドリト・リーの意識が遠のいてゆく。純白の空間から堕ち、少女の顔が遠のいてゆく。暗黒の世界が彼の視界を埋めてゆく。そこに恐怖はなかった。自分自身が一度分解されて再構築されてゆくような感覚の中で、
「今からのお前は、お前が望む理想の自分。奈落の底に落ちるまで、良い夢を。
道を間違えることなく、歩むといい…」
ハスキーボイスの、心地よい女性の声が聞こえた刹那、
エルドリト・リーは、アーカムにある自分の部屋の、ベッドの上で目覚めた。