インスマスからの脱出~SALVATION
□SALVATION 2
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3月某日。平年よりもはるかに低い気温の中で暖房をつけてある部屋と言うのは天国だ。しかし流しという全面タイル張りの場所ではその恩恵も薄い。
肌寒さを感じながらYシャツを大雑把に着た男が髪のセットをしていた。
男…エルドリト・リーは悩んでいた。
慣れない手つきで短い髪をワックスを塗り全て上げ、跳ねる髪をコームでとかして整える。相棒である椿鐘にまた教わったが、髪を無造作に下ろしっぱなしで軍服に近い服装で長いこと暮らし、姿形を気にしかなった為に準備に手こずっていた。しかも髪質が硬いのか暫くは整うが、しばらくすると浮いて崩れてくる。
それに鏡に映った自分自身はかなり目つきが悪くあまりよろしくない。だからと言って髪をおろしているとだらしないと感じた。
とりあえずだらしないままのYシャツをズボンに入れてベルトを締める。まだ絞めていないネクタイを絞める。ダークブルーのネクタイ、これ一つしか持っていない。もうそろそろ洗わねば…そして新しく買わねばいけないとエルドリトは思う。そう言えばスーツも夏用と冬用の二種類しか持っていない。二つとも特殊部隊編入の時に任務に必要だからと買わされたものだ。この二着以外にも持っていた方がいいだろうか?
苦戦しながらネクタイを締めているうちに髪が崩れる。はぁ、とため息をつきながら手で直した、次の瞬間。
「お困りですねー、相棒」
「うぉあっ!?」
エルドリトすらびくっと体が飛び跳ねた。体が瞬時に戦闘態勢になり振り返り様に裏拳を放ったが、声の主はあっさりと体を屈めて避けていった。突然声をかけられるのと同時に鏡に不気味な笑みを浮かべたエルドリトと同じ髪型の警察官が現れたことにエルドリトすら驚かずにはいられなかったのだ。すぐに声の主の姿を認識してエルドリトはため息をつく。屈んだ男は笑って、しかも上機嫌そうに手を振っていた。
「…椿ジョンか…」
「“椿鐘(chun(1)zhong(1))”。発音違うぞ」
「…椿鐘」
「ん♪」
正体はエルドリトの上司であり異母兄である李椿鐘だった。エルドリトが正しい中国語で名前を呼んだことで上機嫌になったようで椿鐘は無垢な笑顔で立ち上がる。
「何しに来た。…いや、どうやって入った?」
「嘻嘻嘻嘻嘻〜(ふっくっく〜)」
内容を語ることなく、笑い声だけあげて椿鐘が指先をエルドリトに掲げる。本格的なピッキングツールがちゃりちゃりと音を上げていた。ピッキングで部屋に入り、あとは忍び足で後ろをとったとエルドリトは解釈する。もうあきれてものも言えない。
「警察不要非法侵入…(警察官が不法侵入か…)」
相手が椿鐘なので、エルドリトは中国語で返す。
「不是不是。假如我用这个打开门口,但是门坏了。因此进入了啊(んーいや、これで開けようとしたら壊れちゃって、そのまま入ってきた)」
椿鐘が流暢な上海語にことばを変える。一応聞き取れた内容にエルドリト自身血圧が上がったのが分かった。
「喂,叫警察(おい、警察呼ぶぞ)」
表情を一切変えず、胸倉を掴んでエルドリトが怒りを表す。椿鐘は道化師のように笑っていた。