2008 SHORT
□家族の優しさ
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バイト中、マスターに頼まれて近くの珈琲豆専門店に買い出しに行った私は、喫茶店に帰る道を死にそうな顔で歩いていた。
なぜこんな今にも地面にぶっ倒れそうになっているかというと、話は今朝まで遡る。
ついこの間までは、朝起きてリビングの電気とテレビをつけて、二人分の簡単な朝食を作り、父を起こしに行くのは私の役目だった。
だけど、今は違う。
今は、朝起きるとすでに継母が朝食を作っているか、義理の弟が制服姿でテレビを見ている。
今まで私は知らなかった。
誰かがいる朝のリビングが、こんなにも明るかったなんて。
「おはようごぜーやす、お姉さん」
「お、おはよう…」
バイトの制服という格好でリビングに入ってきた私に、ソファーでくつろいでいた弟が言った。なぜか黒い笑みを浮かべているのがとても不気味で、敢えてそれを見ないふりをしてキッチンに向かう。
食パンを取り出して、それをトースターに入れる。パンを焼いている間に冷蔵庫を開けると、中にサラダが入っていた。
「昨日の夜に母さんが作って入れておいたみてーですぜ」
リビングから弟の声がして、テキトーに返事をしてから、サラダを取り出した。
白衣の天使の継母は、毎日のようにこうして家族のために食事を作っておいてくれていた。自分だって朝から仕事があったり、夜勤だったりと忙しいというのに、これだけは欠かさない。
まるで本当の天使のようだ、と思う。
そんな継母とゆっくり話す機会はまだ無いのだけど、それでも私はようやく継母を受け入れようとしていた。ここまで自分たちのために尽くしてくれる彼女を、邪険になど出来ない。
サラダをダイニングテーブルに置いて、キッチンに戻ってトースターからパンを取り出す。冷蔵庫の中から牛乳を取り出して、リビングの方に戻ってテーブルに持ってきたものを置いて席につく。
それから朝食を食べはじめた。
「姉さん、」
ソファーに寄り掛かっていた弟に突然呼ばれ、そちらに顔を向けると、弟は先ほどの黒い笑みを私に向けていた。
悪寒が走りつつ、どうしても胸がドキドキと鳴ってしまうのは抑えられない。まさか自分にMっ気があったのか?そんなことは絶対ないし、あったとしても信じたくない。
どぎまぎしながら何?と平静を装って返事をすると、弟は満面の笑みで言った。
「スカートのファスナー開いてますぜ。それから、顔に似合わずに赤い下着なんて、案外エロいんですねィ。でも、体型はまるで男だから全然そそられねーですぜ」
今の気持ちを一昔前の漫画の効果音で例えるならば、こうだ。
ドカーン!
ちょっと例えが死語すぎたかなと後悔しつつ、急いでチャックを上げた。そんな慌てる私を見て、黒い笑みを浮かべた弟がトドメを刺した。
「姉さん、ちったあ女らしくしたらどーですかィ?下着じゃなくて中身を」
とまあ、こんな出来事を思い出して、顔から火がでそうになって死にかけていたのだった。
それにしたって、あの可愛い顔をした弟があんな悪魔みたいな性格だなんて、天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
しかし、そんな悪魔みたいな弟に恋をしてしまった私は本当にバカとしか言いようがない。自分が可哀想で仕方ない。
しかし、好きになってしまったものはしょうがない。
しかも相手は同じ家に住む弟。忘れるだとか諦めるとか、そんな簡単な話で終われない。
私は何も出来ない。
この恋の先に、何が待ってるのだろうか。今のところ、私は弟に何も求めてない。
ただ、恋をしてしまっただけ。これ以上私が弟に何かを望むのだとしたら、一体どうなるのだろう。
悩みながら喫茶店に戻った私は、通常通りの仕事を再開させた。しかし、弟のことが気になって、中々仕事に集中出来なかった。
午後11時過ぎ。
いつもよりも忙しかったために、帰宅時間が遅くなってしまったが、今日は父も継母も夜勤だったはずなので、心配はかけていないだろう。
ゆっくりと深夜の道路を歩いて帰る。道路には誰もいない。薄暗い道を照らす電灯は頼りなく、少しだけ心細くなる。
今誰かが後ろから襲ってきたらどうしよう、などとあり得ないようなあり得るような想像をしながら歩いていると、家が見えた。
なんとなく安心して歩く速度が速くなる。
そういえば、もう弟は寝たかな?とふと思った時、玄関に誰かが座っているのが見えて、ギクリとした。慌てて家の前で足を止めると、私の気配に気付いた玄関に座り込んでいる誰かが顔を上げた。
「あれ…総悟…くん?」
座り込んでいたのは、弟だった。それに安心して肩の力が抜けると同時に安堵のため息を吐き出すと、弟が立ち上がった。
私が玄関の方へと歩いて行くと、弟は少し眉間にしわを寄せて私を睨み付けた。
「遅い。何時だと思ってるんでさァ?」
「ごめん…なさい。仕事が長引いちゃって…でも、いつも遅い時はこれくらいだから」
「いつも、なんて俺は知らねー」
「あ、そうだね。ちゃんと話しておけばよかった。ごめん」
「別に、もう分かったからいいけど。こんなにも遅い時間に一人で歩いて帰ってくるなんて、いくらあんたの胸が絶壁だろうと、危ないもんは危ねーだろィ」
「絶壁…」
「とにかく、遅くなるようなら電話してくだせェ。迎えに行くから」
え、と顔を上げると、弟はそっぽを向いて私に背中を向けると、さっさと玄関のドアを開けて中に入って行ってしまった。慌てて私も中に入って、靴を脱ぎ終えた弟の手を咄嗟に掴んだ。少し驚いた表情をしている弟なんて構わずに、私は聞いた。
「今まで待っててくれたんだね。ありがとう。それから、本当に迎えに…来てくれるの?」
すると、弟は無表情に言った。
「あんたに何かあったら母さんにどやされるからな」
そう言って私の手を振り払った弟の顔は、心なしかうっすら赤く見えた。
それ以上に私の顔はもっと赤いのだろうけれど。
誰かが心配して待っててくれる。それが、こんなに嬉しいだなんて、知らなかった。