2009〜SHORT
□I don't know
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「だから、何度言ったら分かるんだい?」
恐る恐る視線を上げると、伊東先生は無表情で私をじっと見ている。見ている、というよりも、ガン見と言った方が適切な表現かもしれない。
今、私は家庭教師の伊東先生と二人で、畳の客間にて勉強中だ。
正座しながらの勉強は、少しだけ辛いものがあるが、それより辛いのはこの、伊東先生の冷め切った視線だった。
「あ、あの、もう一度ここから説明してもらえますか?」
参考書の英文をペンで差して言うと、伊東先生は顔をしかめた。
「英語で言いなさい」
「わ、WHY?」
「It is your sake(君のためだろ)」
「へ、えーと…アイドンノーワットユー…」
「もう、いいです」
ピシャリと言われて口篭ると、伊東先生は、はーと長い溜め息を吐き出してから、ずり下がってきたメガネを持ち上げた。
「それでは、ここは宿題にするとして、翻訳をしてもらいましょうか」
「え、でも、半分以上アイドントアンダースタンド」
「I understand enough…(分かってるよ)だから、辞書を使っていいですよ」
「え、本当ですか?」
「しかし、和英辞書はだめです。辞書は英英辞書を使ってください。ほら」
ドサリ、大きな音を立てて机に分厚い英英辞書が置かれる。どうやらご丁寧にも伊東先生が持ってきてくれたようだ。
「げ…!じゃなくて、わー家庭教師ってここまでしてくれるんですか…」
にこやかに笑顔を作ってみたが、もちろんそんな笑顔は伊東先生には通用しない。
伊東先生は氷のように冷たい表情で見返してきた。思わず目を逸らす。
「汚さないようにしてください」
「あ、はい、すいません…」
「それじゃ、あと20分でそれ全部訳して」
「え、えええ?!20分て、短すぎじゃないですか?!」
「はい、はじめ」
「Damn it (くそッ)」
「君、そういうのだけは発音いいよね」
頭を抱えて、死ぬ気で辞書を引く。がしかし、英英辞書なんて英語だらけで、分からない単語の意味を調べている中、また分からない単語が出てきて、更にその単語の意味を調べて、また分からない…
「オーマイガアッ!!」
訳が分からなくなって、頭を抱えて悶える。そんな様子を、伊東先生は涼しい顔で眺めている。むしろ、少し面白がっているようにも見えるのは、私の錯覚、なのか。
「先生…」
「何だい?」
「わかりません。もう、何がなんだか…」
伊東先生は呆れたように溜め息を吐いて、仕方ないと呟いた。
「少し休憩しようか」
「わーいやったあ!」
ここぞとばかりに、用意しておいたジュースをすすり、机の下から隠しておいたお菓子を取り出す。
「はい、どうぞ」
クッキーの箱を開けて机に置くと、伊東先生は呆れたようだった。
「君は、こういうことに関しては動きが素早いね。勉強に取り掛かるのは遅いくせに」
図星すぎて何も言えなかったので、とりあえず笑って返す。伊東先生はクッキーを一つ取って、それを口に入れた。
「美味しいですか?」
恐る恐る聞くと、まあまあかな、と伊東先生は少しだけ表情を和らげた。それが嬉しくて、思わず頬が緩む。
いつも冷たい伊東先生だけれど、実はなんやかんやで優しい。そんなギャップとルックスにノックアウトの私は、ある意味英語の勉強なんてしている場合じゃない。
私がクッキーに手を伸ばすと、伊東先生は、おもむろにメガネに手をかけ、それを取って、目頭を揉んだ。
思わず、伊東先生の顔に目が釘付けになる。
初めて見たのだ。伊東先生がメガネを取ったところを。
前々から気が付いてはいたが、やはり伊東先生はとても綺麗な顔立ちをしている。めがねを取ると尚更で、思わず見惚れてしまう。悔しいけれど、かっこいい。
「せ、先生って、目が悪いんですね…」
ちらちらと伊東先生の顔を見ながら言うと、先生はメガネを服の袖で拭きながら、ああ、と思い出したように言った。
「昔からだね」
「今、見えてますか?私の顔」
聞くと、伊東先生はメガネを拭く手を止めてから、顔を上げて目を細めた。
少し睨むような目付きになったが、それでも表情は柔らかさを感じるために、怖くはない。
じっと嘗めるように見られて、自然と顔が熱くなる。
「そうだね。ここからじゃ見えない」
言われて、少しだけ机と自分の体を狭め、伊東先生との間合いを詰める。
「どうですか?」
「いや、輪郭がはっきりしない。全然だめだ」
更に目を細めた伊東先生。背中を少し丸めて、上体を前に押しやる。
「どうです?見えますか?」
伊東先生は首を横に振った。
「まるで、豚みたいに見える」
「な!それ、視力云々の問題ですか?!」
それじゃあ、と再び机に近寄って、伊東先生の顔の前まで近付いた。
「それじゃ、…あ」
その時、あまりにも自分の顔が伊東先生に近付きすぎていることに気付いた。
あと少しで、鼻の先が触れてしまいそうだ。それどころか、もしかしたら吐息が肌に触れてしまっているかもしれない。
慌てて身を引こうとした時、机に付いていた腕を掴まれて、それを阻止された。無理やり力を入れて離れようにも、その手が許してくれない。
「伊東せんせ…」
動揺して、伊東先生の目を覗き込むように見た時、先生は口端を僅かに上げて、目を更に細めて笑った。
「まだまだ、見えない」
反対の手で顎を掴まれて、そのまま吸い寄せられるように伊東先生の唇に触れた時、驚きで大きく開かれた目と、確信的に笑う伊東先生の目が重なった。
わざとだ、この人…!
気付いた時にはもう遅く、一度離れた唇が再び重なった。今度はさっきよりも長く、唇を嘗めるようなキス。
しばらくして離れた唇だったが、すぐそこに伊東先生の顔がまだあった。
「I confirmed you (確認したよ)」
ネイティブかと思うくらい発音よく言われて、私はしどろもどろになりながら、なんとか返事をした。
「あ、アイドンノー…」
090125