2009〜SHORT
□三日月と歪んだ影
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どれだけ泣いて行かないでと叫んでも、あの男は、同郷で昔から馴染みの私を置いて出て行くだろう。
それは、誰が呼び止めても同じ。
例えば、あの堅物で億手な男が、本気で惚れた彼女に、行かないでと泣いてすがりつかれたとしても、背を向けてすたすたと歩いて行ってしまうだろう。
現に、あの男は数年前に彼女を置いて出て行っている。
挙句の果てに、彼女は今や空の上の人だ。
そんなあの人だからこそ、そんな冷たくも優しい不器用な人だからこそ、好きになった。
絶対に自分に振り向いてくれないとわかっていたからこそ、好きになった。
だから私は、あの男に逆らう道を選んだ。
路地を駆け抜ける。
上がる呼吸と供に視線を上げたその先に、三日月が浮いていた。
ぽっかりと暗闇に浮かぶ、弓のようにしなる月が、すっかり変わってしまった自分を薄く照らしている。
罪悪感は無い。あるのは、歪み、変貌した自分の今。いや、私は確かに変わったけれど、根本的な所は何一つ変わっていないんだと、自分に言い訳してみたが、すぐにばからしくなった。
「三日月か。満月までには、会いたいな…」
振り向いてくれないのならば、追うだけだと決めた。
あの男が出て行ったあの日から。
あの男が、そうして愛した人も突き放してしまうというのならば、私も違う形であの男を突き放してやろうと思った。
追って、追って、追って、追い越して、そうして私が振り返ったその時、あの男を死ぬほど驚かせてやろうと、そう決めた。
けれどあの男は、私が自分を裏切ったと知っても、いつものポカーフェイスで済ませてしまうような気もするけれど。
しかし、それもいいか。いや、あの男が平然としている顔の方が、見たいかもしれない。
「おい、何してる。さっさとしねーと、犬どもがやってきちまうだろう」
振り返って言った直後、高杉は私を置いて走り出した。血のついた袖をひらひらとさせ、何事もなかったかのように、薄暗い路地を駆けていく。
この男も、それなりに勝手な男だ。ま、そういう所が気に入っているし、一緒にいてやりやすいのだけれど。
一息吐いて、刀についた血を振り払い、鞘にそれを納めると、高杉の背を追うように駆け出した。
じめじめとした暑い空気が重くまとわりついてくる。まるで、殺した幕臣が行くな行くなと私を引きとめようとしているかのようだ。
それでも私は、路地を抜け、進む。
高杉の背中を追いかけながら、今しがた出てきた屋敷の惨状を思い出して、乾いた笑みが漏れた。血臭にもすっかり慣れ嗅覚がいかれた今の私に、昔の面影など、やはり、ない。
もしかしたら、あの男は私を見ても、気づかないかもしれない。
反対に、昔、肩を並べて笑いあったあの男が、私に気づかないはずないなとも思う。
それにしても、このままでは、今回も逃げ切れてしまうだろう。
ということは、あの男に会うのは、まだまだ先になりそうだ。
それもいいか。散々悪事を重ね、散々あの男を苦しめるのが目的なのだから。
もう少し、罪を重ねたって、どうせ同じだろう。
一つ笑みを零して、頬についた血を手の甲で拭い、再び夜空を見上げる。
すると、そこにはまるで、天罰が下るぞとでもいいたげな三日月が私を見下ろしていた。
「それが目的だから、別にいいんだよ」
そう笑う私を、細い月が睨みつける。
そんな月明かりの下を、さも平然と駆ける私は、どこまでも歪み、もはや、影は人の形をしていなかった。
090630