短編2

□繭
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「繭を育てているの」
 彼女は小さく微笑んで、そう言った。
「何の繭かは分からないわ。繭の状態で拾ったから、育てたとも言えないかもしれない」
 そうして彼女は、机の影に隠すように置いてある箱を取り出した。美しく規則的に並んだ格子模様の箱。
 白いふたつのてのひらで彼女はその箱を包み持ち、小さく傾けた。かたん、と響く。
「この中に、入っているの。私の繭よ」
 彼女は再び、小さく微笑んだ。



 かたん。



 春――
 彼女に初めて繭の箱を見せられてから、暫くの時が流れた。
 最後に見た彼女は、小さなてのひらで優しく格子模様の箱を撫でていた。その瞳は慈しむように箱を見つめて、その唇はきっともうすぐ、と呟いた。
 私のてのひらには、彼女の消息が知れぬ、と知らせる紙が握られている。彼女の行方を知らぬかと、心の乱れそのままに狂った文体で書かれた手紙。
 彼女の失踪が彼女の夫に与えた衝撃の大きさが手に取るように分かる。私に宛てられたこの手紙の、壊れた文章は酷く滑稽に見え、笑いを誘う。
 ぐしゃり、と私は手紙を潰した。灰皿の上へ放り、火をつける。赤い炎で焼かれた手紙は、見る見る小さくなり、やがて黒い煤だけを残して消えた。
 妻を失った夫。あれは、繭に気づけなかったから悪いのだ。
 彼女が大切に育てていた繭。格子模様の箱の中で、羽化の時を今か今かと待っていた。
 私は、後ろを振り返る。そこには、彼女が大切に育てた繭から羽化したばかりの。



 彼女自身が、眠っていた。



 肌の色も髪の色も以前のまま、光を反射する繭の残骸に絡まって。翅の生えた彼女の背中は、小さく一定に上下する。
 私は、手に入れたのだ。彼女を。
 ずっと昔から欲しいと願っていた、けれど叶うことのなかったもの。
 手に入れたのだ。
 ひとでなしと成り下がった彼女を、私は手に入れた。
 二度とあの男に奪われはしない、彼女は私のものだ。
 笑いが込み上げて、喉が鳴る。私は私の笑声を聞いた。
 彼女が小さく蠢いた。目覚めたのだろう、それに気づいた私の声は自然と消える。代わりに、小さな彼女の呻く声音が耳朶を叩いた。
 かんばせが、こちらを向く。彼女の白い面。その中の。



 月明かりの中に光る、ひとのような、ひとでなしの眼が、私を射た。










――繭、終幕。

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