長編
□夏の夜の水辺
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ここで、少し過去語りを致しましょう。
わたしが、あの方を最初に目にした時のことです。
その日は、しとしとと雨の降る日のことでした。わたしは傘を差して、道を歩いていたのです。
それまで談笑しつつ歩いておりました友人達と道を違えて、すぐのことでした。
いつも通る道のことですから、そのお屋敷のことは知っておりました。
その地区は本当ならわたしが歩くことも躊躇われるような場所で、大きく美しいお屋敷ばかりが集まって建っているのです。
けれどわたしはいつもその道を歩いておりました。
その道はわたしの家へと帰る最短の道なのです。
わたしは、毎日少し身を竦ませながら美しいお屋敷ばかりのその道に心をときめかせて歩いていたのです。
そのお屋敷は、そんな素晴らしいお屋敷の中でも更に群を抜いて大きく美しい佇まいをしております、目につかない訳がございません。
わたしも、今まで何度そのお屋敷を見上げてその美しさに溜め息を吐いたか分らない程です。
しかし、わたしはそれまでその方を目にしたことはございませんでした。
何度通ったか分らぬ道ですが、一度も見かけることはなかったのです。
その方は、白い衣を着てお屋敷の二階の窓からじっと、一点を見詰めておりました。
何を見詰めていたのかは、わたしはその方へ視線を奪われていたものですから、分りません。
わたしはぽかんと阿呆のように口を開き、遠目ではありましたが、しとしと降る雨の隙間からその方を見詰めていたのです。
白い衣に、更に白い肌。黒髪は美しく、結われた束が肩へと掛かっておりました。
腹より下は壁へと隠れ、ほっそりとした掌が片方、窓枠に添えられた様はまるで海の向こうで彫られた彫刻のよう。
美しいお屋敷の窓から覗く美しいその姿。
それは、物語で語られるのならばきっと、病弱で儚気な美少女として描かれるのではないかと思われる、そのような状況でございました。
けれど実際のその方は病弱でも儚気でも、そんな雰囲気は欠片も持ち合わせてはおりませんでした。
少なくとも、わたしは欠片も感じることはできませんでした。わたしの感じたその方は、どこまでも強くどこまでも美しい、まるで硝子細工のような印象。
その硝子細工の君に、わたしの目は吸い付いて離れてはくれませんでした。
時を忘れて、わたしはその方を見詰め続けたのです。
けれど、終わりというものは何事にも存在してしまうのです。
一点を見詰めていたその方の視線が外れたかと思うと、そのかんばせがわたしの方を向いたのです。
わたしの勝手な思い込みかもしれませんが、その時は見付かってしまったと羞恥に顔を赤らめ、差していた傘でその方からわたしの身を隠し、慌てて走り帰りました。
けれど、家へと辿り着いてからわたしは後悔に涙を流しました。
どうして、もっと見詰めておかなかったのかと。
今まで何度も通ったか分らぬ道、初めてのお方。
もう、次はいつ目にすることができるか分らぬというのに。
その日は後悔に泣き、けれどわたしはその方に、まるで堕ちる星が地球に引っ張られるように、惹かれ焦がれたのでございます。
そのようなお方でしたから、わたしは声が震えないよう力を込めて、まるで余裕があるかの如く微笑んだのです。
どれだけ喜びをその身の内に抱こうとも、どれだけおそれを抱こうとも、どれだけの緊張を抱こうとも、それらをおくびにも出さぬよう努め、微笑みを浮かべたのです。
その時の一番の心配は、わたしの貼付けた微笑みが強ばっていないかどうか、ということでした。
大丈夫だったと、わたしは思っております。
「こんにちは。はじめまして。雪音、様」
不知火雪音。それがその方のお名前でした。