溷ノ章
□ 四咄 動-ドウ-
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パン。
と、何かを叩いたような乾いた音が体育館中にに響いた。
そして同時にモニターに映っていたタイマーも0になり、映像は消えてただ暗闇の画面が広がる。
音の正体は、シンの手を払いのけた音。
それはほんの一瞬の音で、
高くて、大きくて、
まさか弾かれるなんて思っていなかったのだろう。
シンの眼鏡の奥の瞳が見開かれ、そして呆ける。
「――…シグ…」
「行かない。」
まるで突き放すかのような断言。
言葉に詰まるシンに真っ直ぐな視線を向けて言い切ったのは紛れもない、シグンだった。
迷いなく、真っ直ぐ、一直線にその台詞が彼に通る。
行かない。
否定の言葉。
「…どうして」
殆ど質問になっていない呟きの声で訊き、シンの表情があからさまに曇った。
だって、
断る。言葉なんて、
言うはずが無かったのだから、
怪訝な顔をする相手から少し目を伏せて、つたっていた涙を拭う。
最早それは涙なのか被ったガソリンなのかは分からない。
ただ全身が臭い。
鼻が曲がりそうだ。
それでも、彼に、言うことは言わなければ。
「ごめん」
「…よく考えろよ…今、何が最善の選択なのかっ」
「…ごめんな。むり」
「過去の生活はいらないって言うのか!そりゃ…苦い存在がいたけどそいつはもう死んだ。俺達を脅かす人間なんか、もういないんだぞ!?」
「過去は戻らない。…そうだろ?」
「再構築は出来る」
どんどん離れて行くようなシグンを引き留めようと、言葉が終わるか終わらないかの間際で相槌を返す。
三人で居る事に何故、執着するのだろうか。
「――…別に、オレはそんなもの求めちゃいない。確かに過去の光が、眩しくて戻りたいなんて思う時だってある」
あの頃が懐かしくて、
今より輝いて見える時だってある。
でも、
「でも…だからって、“今”を棄てるなんて、出来ない」
過去があるから今がある。
良くも悪くもそれが総てで、それを否定するつもりはシグンには無い。
過去が嫌な訳ではない。
ただ、ただ今を生きていられるこの瞬間だって、
彼の全てで生きた証で、
過去の積み重ねで今の自分があるのだと、
只の思い込みでも、
言い聞かせでも、
思える自覚は、ある。
「…それは、今の記録屋と言う役目を自負してるから?」
「は、自負?たかだかBランクのオレに自負もヘチマもないだろ」
シグンはそう言えば軽く肩を竦めて嘲笑してみせた。
そしてフラつきながらもゆっくりと立ち上がる。
熱はあるが意志はしっかりと据わって、まだ呂律ははっきりしてるしちゃんと喋れる。
…大丈夫。
落ち着いてきた。
「今、な、記録屋なんて死亡率の高い仕事やってんのは、別にこの仕事以外にオレの出来る事が無いとか、そんな小さい事じゃないんだ」
「…」
「――いや、まぁ、実際力仕事は出来ないし所詮頭ばかりのガキだけどさ…前はこの仕事に対して…“別に死んでもいいや”…って…思ってた」
ぽたぽたと体から滴る限りのある資源。
嫌な臭い。
暫くは体に染み付くかもしれない。
「それは多分きっと、自暴自棄になってたんだ。サンと、お前がいなくなって、さ」
「生きてた。」
「…うん、生きててくれた。それでも、サンは変わってしまった」
兄妹でも“イカれてる”と思えてしまった程に。
「――それは…後で話すから…今は…」
「原因オレのせいなんでしょ?」
「――…」
きゅ、と下唇を噛みしめたのを彼は見逃さなかった。
どこか自覚があったようで、少しだけ目を伏せる。
「…ん、やっぱり。大体、分かるよ」
シンは何も変わらない。
…否、語弊かもしれない。
変わらないものは無い。彼も少なからず変わったのだろう。
でもそれは落ち着きが出てきたとか、そんな小さいものでシグンに対する態度はそのまま。
物凄く、変わってしまったのは、そう…。
変わらせたのはきっと、恐らく自分。
なんとなく、だけど、そうシグンは思った。
「…あーでもね…」
言葉を続けようとして顔を上げたと同時に少し咳き込んだ。
熱い。
肺が灼けてしまいそう。
でも不思議と頭だけは冷静で、
すらすらと台詞が口から流れていく。
「…“死んでもいいや”って思えてたのは、死んだらお前らがソッチで待っててくれると思ってたから。…特にこの世界に思い入れ無いしな。記録屋は山程いる。オレが死んでも問題は無いって、どこかそんな考えが常にあった」
「でもその思案は消えたよね。だったら選ぶ選択肢を間違えてるよ」
「――…死ぬ…条件が変わった…」
「…変わった…?」
ひとつひとつ、呼吸を繰り返す度鼻が痛くなる。
頭痛と、目眩と、吐き気。
まだ、大丈夫。
まだ立っていられる。
「オレは記録屋シグン・トラッツ。昔の“シグン”も“ジョン・トラッツ”も“死んだ”」
オレ(自分)は二回も、死んだ。
そして今、形だけの幻想を手に入れる変わりに自分を捨てろと、言われた。
「…また…この“シグン”を殺すのかよ…」
「違う!確かに事実上こっちに来たら追跡を避けるためにその名前と全てを棄てなきゃならなくなる!でも――でも俺達が覚えていれば――!」
「三回も死にたくないよ」
「――ッ」
シンが言葉を捜せず詰まった口を隠すうよに再び唇を噛み締めた。
彼は、
「バディ解任…?ふざけんなよ…こちらとはまだ主体記録の半分も行ってないのにさ…」
彼はひょっとしたら、
気付いていたのかもしれない。
「…オレは、誰の命令も聞かない」
彼が、
シグンが、
「従うのは…ボスと、」
最初から、
何を、
「バディのマスターだけだ」
誰を選ぶかなんて。
「…」
「アイツを裏切る事なんか出来ない。…オレが死ぬときは、マスターの為に死ぬときだ」
そんな、
そんな真っ直ぐに言われてはもう、シンに言えることなど残されていなかった。
何も言わせないぐらいの決意が、そこにあったから。
「…」
「だから、ごめん。」
…例えオレが此処で焼け死んでもマスターはきっとこんなのでやられるタマではない。
裏切って罪悪感に苛まれるよりいっそ、
いっそバディのまま、死にたい。
これはけじめだ。
記録屋としてでもあるけどそれ以上に
自分の為に。
只でさえこんな正義なんて曖昧な世界で自分の欲に従ったら、どんどん、どんどん自分を失って行く。
そんなクズにはなりたくない。
だから、ごめんなマスター。
助けられないけど、裏切らないよ。
「…それが、お前の答え…?」
再度シンが問いかける。
多分これがラスト。
「…うん」
迷いは、ない。
「…」
シンは言葉を紡ぐ代わりに、ポケットからスイッチを取り出した。
――発火装置。
「…残念だよ、シグン。お前なら例え自分に嘘を吐いてでも…来てくれると思ってたのに」
「…生憎、案外マトモな思考持ってるから私利私欲じゃ動かないんだよ。全く、困った頭だよね、ホント」
そう笑って眼鏡を押し上げて見せて、シンは笑う代わりにスイッチの安全装置を外す。
「…」
「…」
意を決して、
目を瞑った。