東條英機
東條英機閣下



東條英機(とうじょう-ひでき)

日本の陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣

陸軍大将 従二位 勲一等 功二級 統制派 A級戦犯

東條英機閣下が首相就任したときは、既に開戦は避けられない状況であったこともあり、陸相や内相を兼任したのも日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止や、陸海軍の統帥の一本化にするためだったといわれているが、結局終戦まで、陸海軍とも統帥の一本化になる事はできなかった

また東條英機閣下自身、政治を「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたようで、自身の意思と反し、無理やり首相に据えられたといえるだろう

日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、強硬な主戦論を唱え、第3次近衞内閣を退陣に追い込んだといわれているが、1941年に開かれた初の陸海軍合同軍事参議官会議の議事録に目を通した小堀桂一郎は、「和平の手段がなく戦争に突入するしか道がないといっているだけであって、最も責任の重いのは一次から三次と内閣を組閣しながらも確固とした政治姿勢を持たずに外交に失敗し、打つ手が無くなったので責任ある地位から逃げた近衛文麿である」と主張している

また近衛は「昭和19年4月ごろまで、東條に政権を担当させ、最後まで全責任を負わせればよい」と久邇宮朝彦親王に漏らしたという

日米開戦日の深夜、和平を熱望していた天皇陛下の期待に答えることができず、懺悔の念に耐えかねて号泣した逸話は有名で、「昭和天皇独白録」にも記載されている通り、天皇陛下から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、天皇陛下からそれまで前例のない感謝の勅語を贈られた

そして東京裁判時には親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、國に忠義を尽くした國民の一人である被告人として立たせるのは忍びない」と言われ悲しまられた

東條内閣が不人気であった理由について、天皇陛下は「憲兵を用いすぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため國民に東條の気持ちが通じなかった」と回想され、内閣の末期には田中隆吉などの評判の悪い部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している

また中野正剛の事件について「憲兵の情報を鵜呑みにして過剰反応したのではないか」という推察がある

渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという

強姦、略奪などの軍規、風紀に厳しく違反した兵士には容赦なく軍法会議にかけた

戦場の司令官としてもチャハル・スイエン方面における東條兵団の成功はめざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうという意見もある

しかし、東條英機閣下と陸士1期後輩の独立混成第1旅団長酒井鎬次は戦車用兵でしばしば東條英機閣下と対立し、諸兵科との連携を軽視する東條を馬鹿呼ばわりした

東條英機閣下が力をつけると酒井は閑職に左遷され、昭和15年には予備役に編入された

1944年に退陣する際には秘書赤松貞雄が続投の可能性を模索したのに対し東條は即刻、そのような姑息な行動をやめるように命じた

官僚としてはかなり有能であったという評価はあるが、東條英機閣下と犬猿の仲で後に予備役に左遷させられた石原莞爾閣下は、関東軍在勤当時、上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであった

また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際、「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた

ラビ・マーヴィン・トケイヤーいわく樋口季一郎と同様にユダヤ人から「英雄」と称えられている

ユダヤ人が東條英機閣下を「英雄」と称える理由については、まず1937年に ハルピンで開催されたナチスの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人 大会にハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが出席したことに対し、 当時、同盟國であったドイツが抗議をするがその抗議を東條英機閣下が握りつぶした事

ナチスの迫害から逃れたユダヤ人数万人を入國許可がないにも関わらず 満州國に入國させた事

またそれに対するドイツ外務省の抗議を、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した事

ミャンマー(ビルマ)のバー・モウ初代首相 は「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した國はない

真実のミャンマーの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝國政府であった」 と語っている

東京裁判の判事の一人レーリンク判事は東條英機閣下について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった

特に東條英機閣下の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、又「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」と証言している


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