インベンション。
□入れ換わっちゃいました(中編)
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濃い霧が辺りに立ち込めている。
視界は悪いが、すぐ傍に誰かがいると気配で解った。
そして、その誰かが膝を抱えて地べたにしゃがみ込んでいることも何故だか解っていた。
出来るなら、手を差し伸べてあげたい。
けれど霧のせいで相手が何処にいるのかが解らない。
何てもどかしいのだろう。解っているのに、気付いているのに。
自棄になり、がむしゃらに伸ばした手は白い壁に空しく呑み込まれた。
「起きよ、店主殿」
「…ん……あれ、セイロン…?」
「夕食だ」
これからのことについて考えていた筈が、いつの間にか眠っていたらしく、枕元の時計を見れば夕飯の時刻を少し過ぎた頃だった。
セイロンから差し出された盆には、彼の世界で“お粥”と呼ばれる料理が乗っている。
…となると、これはセイロンが作ったのだろう。
そういえばリビエルが運んでくれた今朝の朝食もシルターンの料理だった。おそらく、自分の代わりにセイロンが仲間の食事を作っているに違いない。
「シルターンでの病人食だ。一応、周りには“病人”で通しているからな。味気ないと思うが我慢してくれ」
「そっか。わざわざ、あり…」
盆を受け取ろうとしたライの手が空を切る。
これに唖然として思わずセイロンを見上げると、何故か眩しい笑顔にぶつかる。
何か一計、企てていそうな笑顔に。
そしてライは彼から、粥をすくった匙だけを差し出された。しかもご丁寧に口元へと。
「えっと…セイロン?」
「有難く思うがいいぞ。我が口に運んでやろう」
「いや、いいって!自分で食えるから、そんなことはしなくていいっ!!」
「…しかしだな、店主殿は病人なのだからこれくらいしないと怪しまれるであろう?」
「誰も見てないから怪しまれもしないだろ?!」
甲斐甲斐しく世話を焼こうとする龍人に対し、ライは全力でそれを突っぱねた。
この歳で誰かに食事を食べさせてもらうなど、小っ恥ずかしくて堪らない。
それに加えて、今まで他人どころか親にさえ甘えた経験がないから、こんな時はどういう態度をとれば良いのかも分からない。
物心ついた頃には独りで暮らしていた。親の愛情も朧げな記憶の中にしかない。
だから無条件に優しくされると警戒してしまう。
何か、あるのではないかと。
それはライが意識せずとも、反射的に態度へ出てしまうのだ。
たとえ知り合い相手でも。
これが相手の気分を害するとは解っていても、身にこびりついた処世術はなかなか抜けないのだ。
「…ふむ、そうか…では仕方ないな」
「あ…」
酷く残念そうな表情をして、セイロンは匙を下げる。それと逆に差し出される盆と料理。
やはりセイロンを傷つけてしまったようで、それがとても申し訳なく、ライは無意識に下唇を噛んだ。
恥ずかしいのは確か。しかし嫌ではない。
目の前の彼を傷つけた、他人からの優しさを無条件に受け取れない自分が腹立たしくて、同時に情けなくて俯いた。
「ご、ごめん…何ていうかオレ、ああいう時にどうしたら良いのか分からなくて、その…」
「店主殿」
ぽん、と軽く頭の上に手が乗せられる感覚。そして優しく髪を撫でられる。
「そういう時は『ありがとう』と、言えばいいのではないか?」
「え…」
「お主が言ったのではないか?居候の我々に。親切にされたら『ありがとう』といえば良い、とな。
常日頃、自分が他人にしていることを、自分に返された場合は撥ね退けるとは…店主殿は本当に不思議な性格をしている」
怒っている訳でもなく、悲しそうな訳でもなく。
セイロンは先ほどのライの態度をどこか面白がっているような様子だった。
その証拠に彼は、口元に小さな笑みを浮かべている。
ライとしては「分からない」という、どうしようもない言い訳を述べたら、セイロンに愛想笑いをされるか、それか最悪、厭きられると思っていたのに、意外な展開で。
髪を撫でる手の暖かさに何も言えず、ただ硬直する。
――こんな風に愛しむように触られた事は、遠い昔の記憶にしかない。
子供扱いされるのは正直、好きじゃなかった。
時にはそれを利用する事もあったけれど、早く大人になりたいといつも思っていたから、必要だと思わない時は突っ撥ねていた。
この手は振り払うべき対象なのだろう。今は必要ない時だと思うからだ。
でもさっきの手前、それを実行することは何となく気が引けた。
どうしよう、とライが悩んでいるとタイミング良く誰かがドアを叩いた。
「…どうやら客人が御出でになられたようだな」
「客人?」
セイロンの口調からドアを叩く人物が、身内の者ではない事を悟る。おまけに目の前の居候は少しばかり顔付きを変えた。
一体、誰が来たのか。
少し緊張して様子を窺う。そして現れたのは、知り合いの不思議で小さな少女だ。
「こんばんは、お兄さま」
「シャオメイ!?オレのこと…分かるのか?」
「当然よ。事の顛末はこの人から聞いているわ。それに…この周りを包み込むような気の流れは、まちがいなくお兄さまだもの」
「周り、の気…?」
「ううん、こっちの話。…さて、早速だけど診察といきましょうか」
少女は年相応の笑顔を浮かべると同時に、それと不釣り合いな光をその瞳に宿した。
シャオメイの“診察”は、ほんの数分で終わった。
“診察”と言っても。シャオメイはまずライが中に入っているアルバの身体を触り、そのあと隣のベッドに横たわるライの身体を同じように触っただけである。
この行動で何が分かるのか、ライには全く分からない。
でも少女は何かを、それも良くない情報を掴んだようで、眉を寄せる。そして困った表情をライに向けた。