インベンション。

□入れ換わっちゃいました(後編)
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これで4回目だ。
どうしてなのか、霧の中に佇んでいる自分。そして傍らで泣いている、誰か。
この声は、聴いたことがある。

誰のものだっただろうか。
思い出さなければならない気がする。
きっと名前を呼ばなければ、泣いている人物は何を問いかけても答えてくれない。

名前を思い出すんだ。
――この声は、誰のものだ?



***



翌朝。
陽もまだ昇らない時間に起床したライは身支度を整えると、台所へとまっすぐに向かった。
逸るのを抑えて、しかし出来る限り早足で。

静まり返った食堂まで辿りついた時、台所から光が漏れていることに気付いた。
食堂から台所を覗き込んで見えたのは、燃えるような紅い髪。

「お早う、店主殿」

「セイロン!おはよう。早いんだな」

「いや、今日だけだ。店主殿は必ず早く起きてくると予想してな。…我が眠っている間に、そなたに無理をされては困る」

(無理って…そんな、料理するだけだってのに)

セイロンはぼそっと呟いた。
床下の収納庫から米の入った袋を取り出しつつ。

小さな呟きでも静かな食堂だと響くので、龍人の台詞はしっかりとライの耳に届いている。
米の次は野菜を取り出している紅い背中を、ライは無言で睨んだ。
セイロンの言いたいことは分かっている。
自分の状況だって嫌ってほどに分かっている。
だが、こうも手厚く保護されていると、息が詰まってしまいそうだ。

昨日も「病み上がりだから」という理由で、日課だった仕事をほとんど取り上げられて。
でも、仲間達は自分の代わりに忙しそうで。

その姿を遠目から眺めていると、自分が非力で、必要のない存在になったかのような気分になる。

「…どうした?台所に立ちたかったのだろう?」

「そう、だけど…オレ、何もしないで部屋に籠っていた方が、都合いいのか?」

みんなの手伝いをするはずが、逆に迷惑を振りまいているのではないか。
きっとセイロンにとっても自分は安静にしていた方が良いのだろう。
いつ周りにバレないか心配しないで済むし、変に気を回さなくてもいいから。

でも、だけれど。
本心は――部屋でじっとしているなんて、嫌だ。

龍人は野菜を片手に持ったまま、じっとライを見据える。
真っ赤な瞳の持ち主が一体、何を考えているのかライには分からない。
でも、今抱えている『我儘』を見透かされていそうで、居心地が悪い。

「都合…その辺りは分からんが、とりあえず店主殿はどうしたいのだ?
部屋で一日中じっとしていたいのか?それとも、皆と供に過ごしたいのか?」

「そんなの決まってる。みんなの傍にいたいし、手伝いたい。…けど、それが迷惑なら…」

「迷惑など思っておらぬよ。我も、皆も」

間髪入れず、セイロンが告げる。

「特に台所担当の我にとって、渡りに船。我はシルターン料理しか作れぬのでな。料理の種類が増える事はとても有難いぞ」

セイロンは水道の前に佇むと、にこやかに手招きをする。
これは許されているんだろう。『手伝いたい、傍にいたい』という我儘を。

「セイロン…、あ――」

お礼を言おうとして、言葉に詰まった。

唐突に視界が大きく揺れ始めたからだ。
まるで高い所から落下する前のような、一瞬の浮遊感と、床に叩き落とされる重力。
それが交互に身体にやってくる。

胸の辺りが異常に気持ち悪い。心臓もバクバクとうるさい。キーンと耳鳴りもする。

(なんだこれ、訳が…わから、ない)

とうとう立っていられなくなり、ライは膝から崩れる。
倒れるように座り込んだ為、膝は台所の床で強かに打った。しかし膝の痛みなど気にならない。
この気分の悪さは、それくらい異常なものだった。

こちらに駆け寄ってきたセイロンが、酷く焦った表情で何か話しかけている。
でも耳鳴りが五月蝿くて、よく聞き取れない。
「セイロン」と発したはずの自分の声すら聞き取れなかった。
胸の辺りにある魚の小骨が引っかかったみたいな気持ち悪さを取り除きたくて、無意識に衣服の上から掻き毟るが、当然ながら無駄で。

急にどうしたというのか。
自分の――いや、アルバの身体に一体、何が起こっているのだろうか。
突然の異変に命の危険すら感じる。

「暫し辛抱するのだぞ…!」

セイロンはその右手で、ライの胸元を抱えこんで丸まっていた背中を真っ直ぐに伸ばす。
そして空いていた左手に拳をつくると、ライの背中へ打ち込んだ。
一瞬の痛み。
同時に、背中から何かが身体の中へ流れこんでいくのが分かる。
塞き止められていた水流が、ドッと氾濫したかの様な「気」の流れが、爪の先まで満たしてゆく。

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