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28 亡キ女ヲ想フ【妄想】


あの手はきっと、どんなものよりも柔らかくて温かかった。そう思う。

彼女が亡くなったのは、俺にようやく自我が芽生えたような幼い頃だった。
記憶にはあまりないが、その死を嘆く者はあまりに多かったのでおそらくとても美人だったのだろう。
そして優しくて、陽だまりのような笑顔を持つ人だった。

「おい、お前話聞いてんのかよ」

甘寧の苛立ったような声でふと現実に帰る。
すごく幸せだった気がした空間から連れ戻されて俺も少しだけ嫌悪を抱いたが、
その後すぐにそういえばコイツと酒を飲んでいる最中だったなと思い起して申し訳なさにひとつ、小さな詫びをいれた。
甘寧と言えばそれで納得するような奴ではなく、舌打ちを施してからぎろりと掬いあげるように睨んでくる。子供か。

「俺の話そっちのけで何考えてやがった、あ?」
「何って、別に大したことじゃないし、そもそもあんたには関係のないっつーの」
「へえ、関係ねぇって?」

売り言葉に買い言葉。
きつい口調でこられると同じように返してしまって、言った後で己の失態に気付く。
この性格はいつまでたっても直らない。
甘寧の機嫌が急降下するのを五感で知りながら、どうしようかと考えた。
けれどおそらくこいつに嘘は通じない。馬鹿だけど聡い奴だから。

「…すごく、温かい人を」
「あ?」
「温かい人を、思い出してた」
「女か」
「まぁ、そうなんだけど。もう死んでる」

そういうと甘寧は黙りこんだ。
思いのほか暗い話に気まずくなった、というよりは女の話題だと知って今度は静かな怒りになった、の方がおそらく正しいだろう。
知りたくも分かりたくもないのに、甘寧のことは手に取るように分かってしまう。重い。

「顔も全然思い出せなくてさ。まぁ浮かべた顔はどれも美人なんだけど、妄想にすぎないし。けど、本当に温かかったんだぜ」
「誰だそりゃ。遊郭の女、じゃなさそうだな」
「俺の母親だよ」

そういうと甘寧は少しだけ驚いて、それから今度こそ気まずそうに視線を外した。
予想外の人物への嫉妬だと気付いて恥ずかしくなったのだろう、
めったに染まらない耳がほんのりと赤くなっていて、少し、かわいいなと病的なことを思った。

「俺がまだ小さい頃に亡くなっちまったから、声とか顔とかはっきりとしたものは覚えてないんだよ。感覚的に温かかったなーってさ」
「あぁ、そういうのあるよな。顔も名前も思い出せねぇのに、こんな感じだったなっていうの」
「そうそう、それ。思い出したらすげぇ幸せだったんだよ。妄想でもいいから会いたいってね」
「馬鹿お前、妄想はてめぇが作り上げるもんだろ。夢で見た方がよっぽど現実的だぜ」
「夢だって一種の妄想だろ?」

ここでふと気がついた。
甘寧には当然だが母上のような温かみはない。柔らかくもない。
だけど、一緒にいると気が楽だ。遠慮なんざしないし、お互いいつも適当に本気でいられる。
こんな風に言い合えるのって、幸せなんじゃないか、と気がついた。
母上のことを思い出している時とは違う幸せがあるんじゃないか、なんて。
最近の俺はどうかしちまっている。

「まぁそうだけどよ…凌統?」
「こっち」
「は?…お」

無理矢理こちらを向かせ、顎を掬い取って口付けた。
そうか、幸せなのか俺。
驚いた甘寧もそのままに、俺は心に灯った温かな光にそっと笑顔を向けた。




【亡キ女ヲ想フ】
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