執事様の書棚
□天に拳を突き上げて
2ページ/8ページ
<天の邪鬼の何が悪い>
「あっ…」
夕暮れ帰り道に彼を見つけた。
通りの向こう。赤ん坊を肩に乗せて欠伸を一つ。
「男鹿――」
振ろうと上げた手を途中で止めた。
隣に――もう一人。
いつもの綺麗な顔を崩して、柔らかい表情を浮かべた彼女の唇が艶やかに動いていた。彼の仏頂面も、今日は機嫌が良さそうだ。
――夫婦…か…。
くるり。背を向けて歩き出す。
あぁ…今日はこれが、最後のチャンスだったのに。お昼休み、意地を張らないで行けば良かった。
「また明日…」
明日は、少し早起きをして待ってみようか?――って、ストーカーじゃない。
はぁ。
「何だ?溜め息吐くと、幸せが逃げて行くんだぜ」
「ッ!?」
ぼんやり、し過ぎてた。
直ぐ後ろに、彼がいる。気配の読みにくいとは言っても、こんなに近付かれるまで気付かないなんて――。
よっ。
「邦枝、お前も今帰りか?」
「え、ええ。男鹿…も?」
「おう」
「アウ」
最強最悪の名を欲しいままにする彼が、人懐こい笑みで私の前に立つ。夕陽に向けた背中から、赤ん坊が私に向かって手を伸ばす。
「途中まで一緒に帰ろうぜ」
「ダーウ」
え…?と問い掛ける間もなく、彼は私から鞄を奪うと赤ん坊を渡してくる。
「寄り道していーか?コロッケ買ってこーぜ」
「ちょ…男鹿?」
「ん?」
「ヒルダさんは…」
――一緒だった彼女は?と紡ぐ唇をきゅ…と結ぶ。彼女の名を口にする余裕すら、私にはない。不意に俯いた私を彼が覗き込む。
どうした?――ではなく。
「腹減ったのか?」
うん、分かってる。乙女心が分かる男じゃない…って事くらい。
「違うわよ」
「ウソ吐け。なっさけない顔してんぞ。
ほら、行こーぜ」
「ダウ!」
「ベル坊も腹ペコだってよ」
「うん…」
先を歩く彼の三歩後ろを付いていく。
せっかく会えたのに、一緒にいられる事よりもさっきの三人の姿が私の心を澱ませる。
「ダーブ?」
ぺちり。
「ベルちゃんは…私で良いの?」
小さな手の平が、私の頬に触れる。
…暖かい。
ペチリ。
「熱でもあんのか?」
大きな手の平が、私の額に触れる。
「…冷たい」
――って!
「なっ!?な、に、触ってんの!?」
「だってよ、ぼーっとし過ぎだろ。お前」
「そんな事ないわよ!」
「イヤ、ある」
「ないわよ」
「ある」
⇒次頁
.