テキスト

□爪
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ぱちん、ぱちん、と小気味良い音が騒がしい部室に響く。
日課である部活前の爪切りは、もはややらないと気が済まない。
部員達もいつものことだと気に留める者はいなかった。
続々と支度を終えて部室を出て行く部員達もいつも通りだ。

しかし、海堂の近くでいまだに着替えをしている人物がいる。
それだけならば構わない。なのに、その相手はじっとこちらを見つめている。


「…何見てやがる」
「別に。自意識カジョーなんじゃないスか」


ふい、と視線を逸らされた。カッとなるが、しかし舌打ちをして雑にベンチに座りなおした。
生意気な後輩は、最近やたらと絡んでくる。海堂も頭に血が上りやすいタイプなので毎回反応をしてしまうが、それが余計に相手を、越前リョーマを楽しませることになっていることに気づいた。
それからはなるべく反応を返さないようにしているのだが、それが面白くないのか越前の行動が以前と微妙に変わってきている。


二人きりになった部室に変わらず響く爪を切る音。ぎ、と音がして隣を見れば着替え終わった越前がベンチに座ってこちらを見ている。
ギョッとして背中を向けて、気まずさに少し爪を切るスピードをあげた。
以前は海堂をからかう言動が目立っていたのだが、今はただただ見つめてくる。何か用かと問いかけても先程のような反応ばかりだ。
正直ムカムカするが、ここでまた掴みかかろうものならニヤニヤと何か嫌味を言われるに違いない。
越前の真意はわからないが、これはもはや根比べだ。


ぎ、ぎ、と短く軋む音がする。背後で越前が動いている気配だ。
相手が見えないことでどこか恐怖心を煽る。いや相手は越前で…。
しかし最近の越前は何を考えているのか前に増してわからない。
焦燥感からやすりで手早く爪を整える。ふー、と息を指先に吹きかけて、ようやくこの空間から逃げられるとホッとしたのも束の間、背後からそっと右手を掴まれた。
思わず喉の奥からヒッと情けない声が出てしまった。


「つめ、きれーっスね」

いつの間にか越前はぴったりと海堂の背中にくっついて、その手を取っていた。
越前の指先が海堂の爪の表面を撫で、上へ伸び、爪と皮膚の間を擽るように滑っていく。
動こうと身を捩るが、越前が耳元で「動いたら爪、散らばっちゃうっスよ」と囁いて、後で片付ければいいなんてことを考える余裕もなく、海堂は言われるがまま身じろぎ出来ずに膝に置いた切り捨てた爪の乗ったティッシュに視線を落とすに留まっていた。


耳に柔らかく満足したような越前の吐息がかかる。
越前からこんな風に接触されたことがはじめてでどうしたらいいのかわからず困惑する一方であった。
指と指の間に越前の指が割って入り、するするなぞっていく。
擽ったさに眉を顰め、唇を噛んで、じっと堪える。はたからみたら酷く滑稽だが、声をあげるのも、逃げ出すのも、負けの様な気がして憚られる。
指の腹から手のひらへ指が移動して、海堂のマメに越前の爪先があたる。
腫れて痛いわけでもない馴染みきったそれを、越前は殊更熱い吐息を耳に送り込んで、愛おしげにくるくると撫でている。

緊張からかしっとり海堂の手が汗ばんでいくが、越前は気にすることもなく、手のひらを下から上へ撫でさすり、マメを執拗に撫でて、指の腹を擽って、指と指を絡ませて、切ったばかりの爪先に指を滑らせている。
海堂にこれが最先端の嫌がらせなのかも知れないと思わせるほど熱心な越前に、いよいよ痺れを切らして唇を開こうとして、止まった。
ふに、と熱く柔らかい感触が指先に当たったからだ。


「…っ!な、」


俯いていた視線を越前に向けて、予想以上の至近距離で視線が絡んだ。
いつもよりもどろどろと熱の篭った、まとわりつくような瞳に身が竦む。見知った生意気な笑みが、まったく知らないそれに見えて、越前の唇に触れている手に力が入る。
そして海堂に見せつけるように薄い唇を開いてとろりと舌を出し、爪と皮膚の間を這うように舐めていった。
熱くぬめる感触にぞわりと総毛立ち、海堂は勢いよく手を振り払って立ち上がった。
ぱらぱらと爪が散らばっていくが、それどころではない。


「あーあ、掃除しなきゃ」


当の越前は振り払われたことを気にするでもなく、先程のことに弁明するでもなく、床に散らばる爪の後片付けを心配していた。
それがより不気味に感じて、海堂は唇が戦慄いて言葉にならなかった。


「、な、に、何なんだ、っ…」
「なに、って何が」
「さっき、指、」
「散々触らせておいて、今更?」


くっくっと楽しそうに目を細める目の前の相手に、いつもの影を探すが、見当たらない。
唇は酷薄に歪んで細められた瞳はその実笑っていない。
姿形は越前であるのに、まるで知らない奴のようだ。


「越前、越前だよな」
「オレじゃなきゃ何なの、変な先輩」


じりじりと距離を詰められて、再び指先が触れる寸前で、ガチャリとドアが開いた。


「リョーマくん、一年は早く集合しないと怒られるよー!」
「そーだぞ越前!先輩達ならともかく、…ひぇ、海堂先輩!ち、ちーっす!」


いつもの一年生が越前を迎えに来たようだった。
どろついた空気が霧散し、詰めていた息をそっと吐き出す。たすかった、と何に対してかわからない安堵感に久しぶりに呼吸をした気分になる。
ちらりと見た越前は、すでに帽子を目深に被っていて表情は伺えない。


「…なんて、びっくりしました?」


突然いつもの調子で話しかけられ、頭が回り切らない海堂は懸命に言葉を咀嚼して、理解した。


「…!?…ってめえ、ふざけんな!」
「先輩、本気で驚いてるから、やめられなくなっちゃって」


あまりにもたちの悪い冗談に、掴みかかろうとするも、『海堂先輩が無視するから、つい』とシュンとした態度で言われてしまえば、わかりにくい越前なりのコミュニケーションを無下にしていたのかと勢いを無くし手持ち無沙汰になる。


「だからって、アレはやりすぎだろうが!」
「ちぇ、はいはいスミマセン」


軽口を叩く越前は、表情は伺えないが、海堂の知る越前だった。
ああ、良かった、と知らず胸をなで下ろす。無体をなあなあにしてしまうくらい、認めたくはないが先程までの越前は怖かった。
早く早くと急かす一年達に足を向けた越前が、海堂にだけ聞こえるように呟いた。



「…あと少しだったのに」



『あと少し』。
『あと少し』?
頭に先程の光景がフラッシュバックしそうになり、じわりと熱を持つ舐られた右手をタンクトップで強く拭う。
無情に床に散らばる爪が、このことを現実だと告げていた。


END

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