□桶水と朱
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桶を返したような雨が降り出した。
ばたばたと地を打つ音は聴覚を乱し、
降り注ぐ雨の線に視覚は乱された。
濡れた着物はずしりと重く冷たく、
体温を奪ってゆく。

ぬかるみに足をとられながら、
ただ眼前の敵を切る。
浴びた血を流してくれる事にだけは感謝した。


(早く終わらせてゆっくりと雨空を愛でたいと言うのに。)


「おい、久秀殿っ…待て!」


何やら呼ばれた気がしたが、
この天気と戦の異様な騒々しさに掻き乱されよく分からなかった。


(殺せば良いのだろう、底の知れた…)


構わず斬り進んでいくうちに不意に強烈な痛みが襲う。
柔らかな肉を裂かれた感覚が左の上腕に広がる、
じわりと左の指先に朱が滲んだ。

「つっ…」

急速に脳の記憶回路が回転する
何時だろうか?
思い当たる節がありすぎて特定には至らない。
確実なのはその思い当たる節から幾時か経っているという事。

あまりの喧騒と人を殺すという非日常的な興奮に痛感は鈍っていたようだが
突然それは襲ってきたのだ。

  
気付いてしまえばもう、
知らぬふりはできない。

そんなに流れただろうか?
ぐらりと脳が揺られる感覚がして、
平衡感覚が異常をきたす。

ぽたぽたと流れる血を見れば、
動脈を切っているかもしれない。
ぼうと霞む頭で考える。

(止血せねば…)

思考とは裏腹に体は指令を聞かず、
ぐしゃりと地に膝を着く。
剣を杖のように立て、
何とか侍る事だけは免れた。

息が荒い。


止血のためには甲冑を外さねば…しかし何処で…
などと考えるうちに目の前にひとりの男が現れた。
握られた刃は、
目の前の生き物の首を断とうと怪しく煌めく。
その刃と同じく男の瞳も無機質に光っていた。

「お覚悟、」


「…!久秀殿っ!」



(あぁ、死ぬのか………長頼…せめてお前に………)



張り詰めていた糸を切ったように、
ぷつり
と意識は途絶えた。


 
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