弐
□喪失
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消えた。
ただ生きているだけで良かったのだ、己の強さも弱さも暖かい部分も冷たい部分も陽向も暗闇も全てを知る人。
ただ知っていて欲しかったのだ、哀しみも喜びも怒りも憎しみも唯一人でいい。
自身ですら忘れてしまいそうな負の部分を彼は知っていて、逃げようとする自分を絡めとって引き留めて雁字搦めにして。
本当はそれに甘んじ、縋り安堵した。
忘れそうになっても彼が助けてくれるのだと。
『私はお前の過ちを赦そう。』
『だからお前は死なずに、悔いて悔いて生きればいい、』
『生き地獄を悶えるが良い。』
冷たい声は鼓膜を揺らし蝸牛を滑り脳を濡らし、その声に支配された心の臓は鐘を鳴らすのだ。
「あなたが死んで、私の過ちは闇の中。」
「どうすればいいのですか、」
細川晴元が死んだ。
その知らせを聞いたとき不思議と涙は出なかったし、特別な感情も湧かなかった。
最近は会うこともなく文を交わすでもなく、知らせがないという事は生きてはいるだろうという事しか解らなかったから実感というものは無いに等しかったのだ。
「長慶様、」
家臣の声で現に引き戻された。そんなにひどい顔をしていただろうか?家臣は驚愕と不安が入り交じったような顔をしていた。
「ああ、久秀か。」
「大丈夫ですか?今から…細川家に行くというのに。」
「大事無い。」
細川家と言う前に一瞬戸惑いを見せた男に一瞥をくれて、黒い喪服に袖を通し身支度を整える。
私は今人らしい目を保てているだろうか?
「先に出ています、後ほど。」
少しだけ声色に逡巡を乗せて、自分より年増な男は出て行った。
埋められてしまう前に一度見ておこう、かつての主の死に顔を。
自然と弛んでしまった口元に少し懐かしい様な悲しいような感情が巡る。
暗い炎には蓋をして、髪を整え表に出る。そこには先ほど立った家臣が実に不安げな顔で待っていた。
「待たせたね。」
「いえ、」
「何だね?」
「……………」
「大丈夫だ。」
立ち止まったまま動こうとせず此方を見つめる男に出来るだけ普段の顔で笑って見せた。
成功したかどうかは解らないが。
何か言おうとした口から目を逸らし歩き出す。彼から言葉が漏れることは無かった。
*
「どうぞ」
晴元の遺体はまだ細川邸に安置してあった。明日には葬儀を営み土へと返されるだろう。
通されるままに中に入れば横たわる男の顔には白い布が掛けられて、上下しない胸が生きてはいないことを物語る。
「少し、外してくれるか?」
長慶の言葉に細川家の者達は戸惑っているようだった。
三好家は細川家より事実上政権を奪った。長慶こそ留まったが他の三好の一族は晴元を討ち取らんとしていたことはまごうことない事実なのだ。
既に亡くなっている以上、それより酷い状態になることは無いだろうが。
「別に何もしないよ、別れを告げるだけだ。」
静寂に静かに長慶の声が染み渡る。
細川家の者達は暫く迷いを見せたが長慶の表情から何かを読み取ったらしく「手短にお願いします」とだけ言って出て行った。
ぱたりと襖が閉められればまた静寂が辺りを満たす。
「久秀、」
「…はい」
「君も外してくれ、」
「……………」
来る前から感じていた主の違和感に、何か釈然としない思いを抱きながら久秀は無言で主の背中を見詰めた。
無言の家臣の心中を知ってか知らずか、長慶は振り返り久秀を見た。
自分より少し背が高く年の上回る男にあやすような視線を投げて、
「大丈夫だから、」
と諭した。
暫く無言で、哀しむような顔をした後に久秀は出て行った。
部屋には長慶と晴元の亡骸だけ。
長慶は静かに男の顔に被った布を取り去った。見たこともない静かな表情で男はそこに眠っていた。永遠に覚めることのない眠り。
「晴元様…」
物言わぬ主の顔の横に正座してその顔を見つめ続けた。
「あなたが知る過ちは」
その白い肌に触れようとして、長慶は手を止めた。
「もう現世には非ず。」
その眼にはもう何も映らず、その耳にはもう音は届かず、その肌には触れることさえ………