いち

□誘惑
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「半蔵殿、どうか食事をとってください。」

織田家領内、服部半蔵という忍びが捕らえられていた。

捕らえられて幾日か、目的は定かではないがされていることはよく解った。

確か、一揆衆との戦に出て一太刀入れられた。不覚にも深手を負い、あろうことか意識を手放し。
目が覚めれば此処にいて今に至る。

「このままでは…」

困ったような表情で半蔵を見下ろす男を、半蔵は見たことがある。
黒く癖のない髪に切れ長の瞳、いつも哀愁を帯びたその表情は、織田家家臣、明智光秀。

ふうと溜め息が聞こえた。

溜め息をつきたいのはこちらだ、と、痛みに耐えながら半蔵は思った。
捕らえられた後に趣味の悪い男が付けた太股の傷がズキズキと存在を主張している。

そこに何か塗り込めたのか、耐え難い疼きと蚤痒が襲う。
止血が働かないのも薬のせいか。

滴る血を採取しているらしい。

どこまでも趣味の悪い男だと、半蔵は舌打ちした。

それでも、体は正直で。
失血の沙汰か、脈が上がり頭はぼうとして、よく解らなくなってきていた。

「半蔵殿、せめて何か口にしませぬと。」

「そう思うなら、…止めろ。」

 
心配そうに見下ろす男の瞳を睨み付け息も絶え絶えに告げた。
この男もまた、苛烈な奴の所業に困れども逆らえぬのだろう。

しかし、半蔵にとりそんな事は知ったことではない。

「…あっ……」

図らずとも上がる息、定期的に襲いくる痛みにたまらず声が漏れる。

悔しさからか、生命の危機のためかじわりと視界に水が滲んだ。

手足に力が入らない。

水分だけでも、と体が訴える。
しかしそれは忍びとしての彼の根底が許さなかった。

「…家康殿のもとに帰られるのでしょう?」

光秀は、強情な忍びに業を煮やして彼の信じる唯一の者の名を口にした。

それまで頑なに拒絶を示していた鋭い眸が揺れる。

信長公が言っていたのはこの事か、と光秀は心の中で思うのだった。

「必要量採取すれば、必ず釈放しますから。ですから、其れまでは辛抱を。」

何故だ、
と目で訴える半蔵。
そんな彼にそっと匙に粥の上澄みを掬い差し出した。

手負いの獣とはまさにこの事、傷ついてもなお命乞いや情けは受けぬと眼が訴える。
それでも光秀は匙を頑固な男の口元に運んだ。

しばらく何かと葛藤した後、半蔵はそっと口を開く。

 
きっと、孤高を貫き死するより、情けを受けても主の元へ戻ることを望んだのだろう。

頑なに閉じられていたそこは熟れたように赤く、息遣いは荒い。
しかし眸は尚も爛々と輝き、隙あらば噛みつかんとする野生の様だ。

光秀はどきりとし生唾を呑んだ。

なる程、信長公が好みそうな…
などと不純な事が頭を巡りはじめ、光秀は頭を振った。


「…貴様っ、」


何口か粥を食した後に、強烈な眠気が半蔵を襲う。
歪む視界に必死に耐えたが、既に極限まですり減っていた体力ではどうにもならずに半蔵は目を閉じた。

「こうでもしなければ、あなたは眠ることさえしない。」

さらさらと長い髪を靡かせて、光秀は汗に濡れて額に張り付く半蔵の髪をかき分けた。

「強情なのも考え物ですね。」

忍びの本能からか、体力も限界をとうに通り越しているであろうに眠ろうとしない半蔵を、眠らせるために粥に一服盛ったのだ。

『家康』という彼にとって甘美な餌をちらつかせて。

「それにしても…」

暫くは息も荒かったが、次第に整い、すーすーと寝息を立てて眠り始めた忍びの顔は人のそれであった。

赤く濡れる唇に、誘われるように口付けた。
柔らかく濡れて熱いそれに、劣情が首を擡げて光秀は慌てて口を離す。

自分は何をしているのだ、そういった事を好まないはずの己の、予期せぬ衝動に光秀自身が戸惑った。

この胸の動悸は…

太股から滴る朱にも目眩がしそうで、光秀は織田家の医師に後を任せてその場を後にした。

信長が言った、半蔵に対する『口惜しい』の意味が分かった気がして、光秀は深く溜め息をつく。

ああいうかたちで、関わりを持つべきではなかった。

今更後悔したところで遅いのだが。

あの眼が、あの声が、あの吐息が、熱が、光秀を絡めて離さない。
まるで蜘蛛の糸のようだ。

それなのに、彼が見るのはただ一人だけ。

「半蔵殿…か、」

冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、光秀は熱を下げようと必死になった。


彼の血潮は甘美な毒、彼の心は辛酸の…




‐終‐



20121106



 
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