いち
□桔梗と狗
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「何故、と言いたそうですね。」
「…………」
燭台の一つしかない部屋に、するりと人影が忍んだ。彼は少し驚いたような顔をした。
初めてみる顔。
「信長公でないことくらい、貴方なら気配で分かったでしょう。」
「……誰のものかまでは。」
「そうですか。」
口元だけで、笑って見せた。
ぎらつく眼光はこちらを探っている。
「まあ、お座りください。今宵は、貴方をもてなすようにと言われています。」
正直、自信がなかった。彼は、魔王が居ないと知れば帰ってしまうのではないか。自分に、魔王と同等の価値があるようには思えない。
しかし、どこかに自負もあった。彼を言葉巧みに誘えるのではないかと。
「私の愚痴の相手でも、と。図々しいことを。」
「…………」
「お嫌でしたら、」
「…………」
帰るかと思われた彼は、帰らなかった。目の前に座る男の所作を眺め、微笑んだ。
じわりと、心にひとつ染みが広がった。
元来より信長公のようにはなれない。
僅かでも、信頼を寄せるものを今から私は……
躊躇いが、無いわけではない。ただ、私も一人の家臣でしかないのだ。守るもののため、己を殺すことが必要なときもある。
そう、己に言い聞かせて。
「信長は、」
「今宵は急な私用にて。しかし、半蔵どのにもてなしもなく帰っていただくのをよしとしなかったのでしょうね。」
「…………それで、貴様が……」
「はい。」
困ったような顔をつくって、笑う。いつからか、表情を繕うのが酷くうまくなった。
まだ、探るような視線はまだあるが、警戒は少しだけ和らいでいる気がする。
「公の、代わりにもなりませんでしょうが。」
「いや。…………ありがたく。」
そんな光秀とは正反対に、表情はほとんど変えず。小柄な男は目線だけで物語る。
とりとめの無い話をした。
あまり口数は多くないが、柔らかくなった目線にまたひとつ心が痛んだ。
いっそ、無情になれればどんなによいか。
いっそ、この忍が心から憎ければどんなに楽か。
かしゃん、と耳を裂く音にはっとする。
そうして、やっと、と安堵もする。
時間が経てば経つほど、覚悟が揺らぐから。
「き、…………さま……」
「気づきませんでしたか。」
「はっ、……あ、」
「良かった。よく回ったようですね。」
忍の顔を見る。
ぞくりとするほどに、欲情した彼がそこにいた。
少しずつ飲ませたのは媚薬。
怪しまれないよう、自分も同じ徳利より飲んだため少しは効いている。
だが彼にはもっとよく効くだろう。
夕食に混ぜた薬物とよく反応するよう仕込んであったのだから。
「…………っ、…………くそ」
「大丈夫ですか?介添えいたしましょう。」
「あっ、」
立ち上がり逃げ出そうとする男の手を引いた。触れたところ全てから快感が生まれるはずだ。
案の定、男は立っていられずくずおれた。
「んんっ」
まるで誘う遊女のような瞳と、熱い吐息。近くにあった赤い赤い唇。思わず己のそらを重ねる。熱い。溶けてしまいそうな錯覚。
滑った粘膜同士が混ざり合う卑猥な音が脳髄を直に揺さぶる。理性などどこか遠くへ行ってしまった。
「は、あ…………」
「ああ、甘い香りが。」
口をはなせば、しっとりと唾液が糸を引いた。耳の裏へ鼻を寄せればびくりと身体が跳ねる。
「半蔵どの、」
耳元で低く囁く。それにすら反応する彼を嘲笑った。女のようにと。好いてもいない男の声に感じ、見境なく身体を重ねる彼に。
「私に、彼を?」
「不満があるか。」
「…………不満と申されるか、」
「主の行いを代行するに、誉れなくなんとする。」
玉座に座して、見下ろす男の意地の悪い目が細まった。
「しかし、」
「できぬとあらば他のものに託すまで。よい、下がれ。」
光秀はあの日の狗を思い出す。
頑なな目、体力の限界を迎えてなお噛みつくような反抗心。
他の誰かに、など嫌だと。そう思った。
「いや、私が…………」
そんな光秀の心情を、知ってか知らずか。魔王がまたひとつ笑った。