□桶水と朱
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(この香りは…)


水面にたゆたうような感覚から、
鼻を擽る匂いに意識がまだあることを知った。

(死後の世界など信じていなかったのだが…)

光のような気配を感じて、
そっと目を開けた。
天井。

(この様な光景、前にも…)

「目覚めたか」

よく聞き慣れた声がして、
声の方を見て久秀は少し驚いた。

「兄上でなくてすまないな。」

久秀の驚きを見て取った若者が言った。
声は実によく似ている。
しかし真一文字に結ばれた口ときちんと結われた髷、
真面目な目線はどれをとっても長慶のものとは違っていた。

「卿か、実に似ているな。声が、だがね。」

「今更何を………怪我をしているから待てと言ったのに、貴殿は…」

あぁ、あの時の声はこの若者であったか。
と一人合点をつけて久秀は男を眺めた。

「少しは自身の立場をわきまえていただかなければ。」

「すまないね、以後気をつける。」






















 
酷い雨の中血を流しながら闘う男が居た。
まだ戦に出るようになって間もない男だ。
腕は立つ、
ただ場数が少なく己の危機に気付いていない様子だった。


「おい、久秀殿っ!待て…血が、戻って手当てを!」

言ったが、
周りの喧騒と降りしきる雨と
戦のしょう気に呑まれているらしく届かない。

ひたすら斬り進んでゆく男を、
自身も斬りながら追った。
案の定くずおれる体、
失血の沙汰だろう事は明白だった。

膝を着き荒く息をする男の前に一人の敵、
煌めく刃はみしるしを奪わんと輝いた。


「久秀殿っ!」


男の刀が久秀の喉の皮膚に侵入した刹那、
義賢の刀が敵の腕を切り落とした。
どさりと鈍い音と男の狼狽する声を聞く。
次いで喉をひと突き、
男は何も発しなくなった。

義賢は倒れる久秀を本陣へ運び手当をした。
辛うじて生きている。
安堵と、少しばかりの苦みを感じて義賢は深く息をした。


「兄上っ、」


がちゃがちゃと甲冑を鳴らし、
息を荒げて走ってきたのは十河一存。

 
「………何故助けたのです、そんな奴…」

躊躇いがちに、しかし強く思いの籠もった問いだ。

やはりな、
「見ていたのか………。
家臣を見殺しにする馬鹿はおるまい。滅相な事を言うな。」


 感情をむき出しにする弟をぴしゃりと叱咤した。

黙り込む弟の目は未だに義賢を凝視し
無言の抗議を行っている。

何よりも兄上が悲しむだろう…
と義賢は思ったがそれは心の内にしまった。


 
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