その他
□柳幸
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人間、目先のものに意識は向けられても、いくつかの先を見越した未来に関しては、酷く無頓着になるものだ。
それが、自らの将来に対してだってそうなのだから、まして他人事ともなれば、運命なんていう重みあってしかるべき言葉も、人にとっては特に、実感の伴わないただの文字列にしか過ぎないのだろう。
俺に降り懸かって来たもの、それは俺にとっては現実でも、周囲にしてみれば、それは受け入れるにはあまりに非日常的でありすぎた。
今は病を治すことに専念をしろ、関東大会に出場出来ない俺にそんなふうなことを言った弦一郎の声色は、言っている内容の意味を彼自身が理解仕切れていないのではないかと疑いたくなる程に、やけに薄い音程を保っていたなと思う。
面白いものだな、と、あの時俺は冷静に考えた。
誰もが、俺がテニスを続けられなくなることを按じ、噛み締めた奥歯を隠したような苦い表情をこの白い部屋に残しては行ったが、誰ひとり、俺の隣に備わった死の可能性については、見えていないようだった。
常に先を見越し、真実を真実として受け入れることを誰よりも得意とする蓮二ですら、それはただ受け入れるだけの、“もしかしたら”という分岐点でしかないらしい。
感情が取り払われた表情は相変わらずで、時には俺を案じたり、安易に「大丈夫だ」と言う俺を諌めたりもしたが、いつ、どこで会っても、そう、俺が倒れる前だって蓮二はそんな表情しか見せないやつだったと俺に気付かせただけだ。
だから俺も、自分の内に在るものを誰にも見せられずに来た。
だから俺は孤独だった。
でも本当は、気付いて欲しかったのだと思う。
「蓮二ぐらい、泣いてくれたって良さそうなのにな」
期待を込めて言ってやると、少々不可解そうに口元を歪められる。
あの顔は、俺とテニスをするときにも見せるお決まりのものだ。
予測をされるのは癪だなどと言って、俺が何も考えずに球を打ち返すと、たいていはあの眉間のシワを見ることが出来る。
つまらないな。
状況にそぐわずに、ただそんな簡素な印象が滲んだ。
「赤也や……そうだな、弦一郎の方がそういったことは似合いそうだが?」
「俺は、キミに泣いてもらいたいんだよ」
赤也や弦一郎なんてのは、何かが実際にその身に降り懸かって、やっと起こった事態を理解する、典型的なタイプだ。
死んだ俺を悔やんで涙を流すやつの顔なんて、たくさん思い浮かんできりないし、想像出来過ぎてつまらない。
だから俺は、多分、今俺の心境を理解してくれる一番近い場所に居るはずのキミに頼んだんだ。
見えていないんじゃない、死という可能性とそれに隣接した俺を知っていながら、その身に感じ取るきっかけだけ備わっていない彼に、鍵を渡したくなった。
蓮二が、同じ分だけ俺と苦しんでくれたらいいのに、と。
俺は座ったままでぐいと彼のネクタイを引っ張って、蓮二と無理矢理唇を結ぶ。
蓮二は驚かずに、至近距離のまま俺を見据えた。
「なぁ、泣いてよ」
病院はどこもかしこも白くて、テニスをしていた時は健康的な色を保っていた俺の肌も、今は生れつきの色白に戻って、部屋に馴染んでしまっている。
身体は冷たい白に同化して、壁は俺の声を響かせず、吸収する。
誰かに繋ぎ止めておいてもらわなければ、冗談抜きにこの空間に溶けてしまいそうで、それはいくら強がったところで、拭い去ることの出来ない恐怖だ。
同じものを感じ取ってくれたからこそ、今、蓮二は俺を拒まなかった、そう信じたい。
俺がお前を好きだから、お前も俺を好きになればいい。
俺がお前と離れたくないから、お前も俺と離れたくないと思えばいい。
俺が死を怖いと思うから、お前も俺の死を怖いと思えばいい。
(――違う、思って、欲しいんだ)
俺がそんな我が儘を言ったら、蓮二は、酷く真面目腐って、こんな台詞を返してくれた。
「お前が死にたくないと泣いて俺にすがったら、俺も考えてやないでもない。どうする、精市」
彼の言葉が予想以上に甘くて、俺はいくらかためらってしまったけれど。
――ああ、やっぱり俺は、キミが好きだよ。
次の瞬間には、俺はもう、心置きなくその袖を掴んで、
「死にたくない」
そう、泣きすがっていた。
fin